円空さんを訪ねるには、このパンフ |
岐阜県のスキー場に行けば、円空さんの仏様に出会うチャンスが増えます。
もちろん、円空さんが生きた江戸時代、美濃・飛騨で活動したからなの。
しかも、諸国を行脚した地方は、東北北海道にまで広がりを見せました。
ずい分と、広範囲な活躍ですが、その仏像が北海道南部にあるのです。
その江戸時代、北海道は松前藩の領地でしたが、稲作が出来ません。
何万石と、治める領地の経済力をお米の収穫で把握した時代なのにな。
なので、米が獲れない代わりに、他の商品物でお米の価値に換算ました。
鮭、鰊、昆布など水産資源が主な商品で、それが一万石とされました。
この石高ですが、大名とみなすレベルの最低高なので、恣意的でしょう。
でも、貨幣価値に換算した額で見た資料では、それ以上だったようです。
江戸幕府は、米の取れ高を尺度とする農本主義で運営されていました。
それでも、貨幣経済が浸透し、北前舟による物流が藩に貢献しました。
実態以上に金持ちだったと見るべきですが、和人はせいぜい三万人です。
人口が少なすぎで、広大な北海道を治めるには大変だったと思います。
しかも、その和人は、殆どが気候の穏やかな道南地方に集中しました。
その証拠として、北海道の南部は杉の木が生育できる北限なのです。
そんな人口も少なく文物にも乏しい地域に、仏を彫る阿闍梨が現れる。
それが円空さんでして、地元の人たちも、敬って歓待するのは当たり前。
有珠善行寺の円空仏 |
そんな状況で仏を彫ったのだと思いますが、有珠善光寺にもありました。
場所は、有名な観光地、洞爺湖のそばで噴火した有珠山の山麓です。
道産子にとって、明治から開拓が始まる前の歴史は、無いに等しいのだ。
だから、内地の連綿と続く歴史と言う流れに、つい憧れを抱くものです。
大体、江戸時代以前に建立された寺院が、数えるほどしかないのですよ。
中でも、この有珠善光寺は有名で、小学校の郷土史でも教わりました。
このため、円空さんが彫った仏像が残されていたのは、記憶に残りました。
これが子供心にも、はるばる北海道まで旅して仏様を彫ったというお姿。
それ以降、内地で働くようになり、円空さんの実際の仏像を拝みたくなる。
拝観できるチャンスが増えたわけですし、スキー旅行に併せたらどうなのか。
そう思って、その仏様の多い地域、岐阜県へスキー行脚に出かけました。
ところが、問題がありまして、宝物殿のある寺院は、冬季休館になります。
雪の多い地域ですから、そんな寒い頃に、わざわざ訪れる人もおりません。
それを知らずに訪ねて悔やんだのが、千光寺の円空仏寺宝館なんだ。
確か、ほおの木平スキー場へ行った時と思いますが、松本から入りました。
高額な通行料で驚いたトンネル、安房峠道路を走り抜けた分けです。
だから、そこまで行ったのにという悔しさもありますが、休館は致し方ない。
いつか日を改めてということにして、その時が二三年前にめぐってきました。
江戸期の近世畸人伝にも紹介された |
それは、奥美濃のスキー場を滑りに行ったときのことで、帰りがてらでした。
以前より、東海北陸自動車道があるので、この辺は便利になりました。
それで、時間に余裕もあり、高速を降りて円空ふるさと館に向かいました。
この美並の地区は、元々、円空さんが長きにわたって活動した場所です。
なので、木っ端仏の小さい仏様から、大振りな仏様まで鑑賞できるんだ。
隣は星宮神社があり、元は粥川寺ですが、円空さんとゆかりもあります。
こうして拝観できましたが、印象的な荒々しいなた彫りに感銘しましたな。
仏の教えを極めようとした求道の姿が、仏様に表れている気もしました。
というわけで、芸術性では、木喰さんよりも、はるかに高尚な気がしました。
タイトルにもありますが、年齢を重ねていくと楽しみにも巾が出てまいりますので、滑ること以外のオプションが大切で、ゲレ食がどうとか、地酒が同とか言うのは、至極、月並み平凡なことで、こういうジャンルに心がけるのも一興かと思うのでありました。
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