このアイヌの酋長が手に持っているのは、”キララ・ウシ・トミ・カムイ”です。
”角の生えている宝神”を意味しているそうで、呪術的な祭器の見立て。
鍬形とも言いますが、首長だけが持つことのできた宝器なんだそうです。
差配する集落に災いや病気が蔓延った時、祈祷が目的で使ったらしい。
しかも、持ち主は山中に埋めるため、死去したら、ありかも分かりません。
霊力が強い魔物のように思われていたので、現物が残されていないほど。
偶然に土中から掘り出されて発見されるだけで、発見例は二十ちょっと。
実物を目にする機会すら少ないのですが、忘れられない形態ですね。
ただ、日本人からしてみると、兜に付いている前立てにも見えるのです。
まるで、五月の節句人形にあ、鎧武者に飾られる典型的なデザインだ。
ただ、戦国時代以降は様々なデザインに発展しますが、これが基本形。
でも、どうして鍬形だけを切り離して祭祀道具にしたのか、分かりません。
発掘された現物は、作りが意外に華奢でペラペラして精巧感に乏しい。
なので、武具から脱皮して、意匠だけを似せた手工芸品には違いない。
この理由がはっきりしていないのですが、鎧姿の和人に恐れ慄いたのか。
となると、アイヌ人は和人と戦っていなければ記憶しないと思うのですよ。
まあ、歴史的にアイヌ人は、道南地方に住み着いた和人と戦いました。
大きな戦いでは三回ありますが、その最初はコシャマインの乱なんだな。
時は室町時代、鍛冶屋の職人がアイヌの若者を刺し殺してしまった。
日頃、和人の作る鉄製品を、毛皮などで物々交換したのがアイヌ人。
毛皮を取る狩猟、鮭を捕獲する漁労など、鉄製用具は欠かせません。
このため、和人は売り手市場で優位に立ち、アイヌ人は不満を持った。
いざかいも絶えなかったのでしょうが、この人殺しが不満の頂点になった。
結果、族長コシャマインが蜂起して、和人たちの砦を次々攻め落とす。
狩猟民族のアイヌ人ですから、弓矢など獣をとらえる用具はお手の物だ。
しかも、生活で狩りをするのなら、闘争本能が刷り込まれていましょう。
最終的に、和人達は道南の松前まで追われて退却するしかありません。
この時、多くの武士が勇敢に戦って散ったはずで、鎧姿を見たのでしょう。
もしそうなら、勇ましく戦う姿から鬼神が宿っているとでも思ったのだろうか。
もっとも、アイヌの首長は、古い鎧など和人の武具を所有していました。
つまり、防御に優れていたのも事実ですが、要は総大将のコスチューム。
威厳や地位を誇示しながら、戦の指揮を執るのが目的だったということ。
出土した鍬形 |
これは、和人も同じでしょうが、鍬形の霊力はここから来ているのだろう。
そんな風に思ってしまいますが、その後、鉄砲の登場が戦を変えました。
戦国時代、日本は世界最大の生産国になりましたが、最先端の武器。
これ以降、鉄砲の武力を背景に、アイヌ人より優位に立ったのも事実。
というわけで、近代兵器の前には鎧兜もかなわず、鍬形のみ残された。
それは、すべての物の中に霊が宿るというアニミズム信仰があってこそ、アイヌの人々に残されていったと思うのであり、その鎧姿の示威的ないでたちをして、霊力を宿していると思わせたのも、むべなるかなと思ったのでした。
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