ここは、台湾東部の台東県鹿野郷にある龍田村で、日本統治時代は鹿野村です。
日本人が入植しましたが、多くは長野県や新潟県からの移住で占められました。
寒い地方の雪国から移り住んだ人が多いようで、自分の祖先も越後の出身です。
ご先祖様は、北海道に新天地を求めましたが、北回帰線を超えた人もいるんだ。
北海道の寒さもこたえたでしょうが、熱帯になると暑さに我慢できたのかなあ。
自分なんか大学を卒業して首都圏に就職したけど、道産子は夏が寝苦しいんだ。
今晩は熱帯夜とか天気予報でアナウンスされると、それだけでうんざりします。
そうなると、南国の未開地を開拓するのは、大変に厳しかったと想像されます。
それでも、厳しい冬の寒さを耐え忍ぶよりは、未だ増しだったのかもしれない。
でもねえ、かの地は11月の平均最高気温で、27度なんだから日本は夏時分。
横浜の9月の平均気温に近く、二ヶ月は季節がずれてやって来る気もしました。
日本の田舎の街並みが残っている |
台湾でも珍しくなった人手の茶摘み作業 |
汗かきなものだから、汗びっしょりになってしまいますが、朝は意外に肌寒い。
18度くらいになる日もあるので、長袖がいいのか半袖がいいのか難しいんだ。
なので、一日を通して長袖を着ていると、日中は暑さで腕まくりをしたりとか。
そんな気候ですから、移住した人々は、気候に慣れるのが大変だったでしょう。
他の開拓地では、距離的に近い九州地ら移り住んだ人が多かったと聞きました。
まあ、新潟県は、明治の初め、日本で一番、人口増加が激しかったところです。
このため、次男坊三男坊は家督を継ぐことが出来ず、仕事を県外に求めました。
要するに出稼ぎしたんだけど、東京では銭湯の経営者が新潟を含め北陸の出身。
以降、代を重ねながら定住したのですが、海を越えた移住は、今生の別れです。
さぞや、開拓者たちは人生の一大決心をして、海を越えたのかと感銘した次第。
こうして、開拓も前進して市街地も出来上がれば、村の体裁も整いだします。
でも、夏祭りなど住人が団結して祭事を行うと、村の拠り所に鎮守が欲しい。
北海道大学のポプラ並木を思い出す |
校長先生が住んでいた日本家屋だって |
そこで、鹿野神社が建立されたのですが、敗戦後、破却されてしまいました。
日本の神道は、日本人だけの宗教だと思うし、もう日本の国土ではないものな。
でも、言葉や習慣が違っても現地の人々は親切で、改めて建立してくれたんだ。
三年程前のことで、わざわざ、日本から宮大工を招いて木材も取り寄せました。
当時、サトウキビ栽培に携わった日本人たちの心の拠り所だったのでしょう。
それを、戦後に移り住んだ地元の人々の発案で、再建してくれた厚情に感謝だ。
というわけで、当時、台湾製糖が推進した開拓事業は、未だ未開の原野でした。
開拓地は、花蓮県と台東県を縦断する細長い谷間平原で、それを花東縦谷と呼ぶんだけど、マラリアの風土病や、原住民との対応に悩みながら開拓した人々の労苦をしのびつつ、北海道開拓と同じように現地の経済開発を進めた日本人にとって、かの地を搾取するというような植民地政策の発想は微塵も無かったのだろうと、思うのでありました。
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