ウクライナという国は、国際連合の加盟国として国連総会に議席を持ちました。
ソビエト社会主義連邦の一員だったのに、えっと思う人もいるかもしれません。
実は、ウクライナというエリアは、二十世紀まで民族国家を持ちませんでした。
その後、ロシア帝国の支配下にあった関係で、ソ連邦の一員の国家になります。
母語もウクライナ語で、キリル文字を使う点では同じですが、違う言語なんだ。
どちらかというと、文化的には、地理的に近い中欧東欧諸国と深い関係にある。
16世紀以降、国土は、ヨーロッパの穀倉地帯として知られるほど、豊穣でした。
それから、19世紀に入って工業を含めた産業地帯として大きく発展しています。
まあ、鉄鉱石や石炭の天然資源にも恵まれて、鉄鋼業を中心に発展したんだな。
だから、この国がロシアより先進地帯であったのは、間違いないと思うのです。
実際、あの中国の空母”遼寧”も、ウクライナの造船所で建造された事実がある。
なので、ウクライナの国民は、完全に独立できて良かったと思っているはずね。
だけど、ソ連邦ではロシア語使用が強要された結果、東部ではロシア語が優位。
ウクライナ人なのに、日常生活でもロシア語を話している人も多いという事実。
このロシア化は、同地では17世紀から始まりましたが、最悪は農業の集団化だ。
この集団化により、同国の文化の中心だった農村が破壊され、疲弊したのです。
しかも、裕福な農民は「人民の敵」としてシベリアと沿海州へ流罪されました。
この強制移住の犠牲になった農民は、少なくとも数百万人が死亡したんだって。
これは、当時、独裁者だったスターリンが進めた政策ですが、集団虐殺ですわ。
まあ、未だに、露助は同国のクリミア半島を実効支配で弱い者いじめする始末。
1996年発行の切手 |
それで、なぜここまでこの国を解説するのかは、作曲家コセンコが関わるから。
この彼の生涯こそ、このロシア化が進んだ時代であって境遇が符合しています。
だって、この時代の彼の暮らしについて、ウイキペディアの説明が異様でした。
音楽院の教授だったのに、他の家族と生計を分け合うのを強要されたとあるな。
それに、路上生活者を頻繁に招きいれては、食物や金品を与えていた事実なの。
これって、極端なロシア化で、国内経済が疲弊し破綻していたのが背景だろう。
多分、この同化政策のおかげで、ウクライナ独自の文化活動は停滞したはずだ。
だから、このピアノ協奏曲が発表された時期を考えると、感慨深いものがある。
ロマン派後期の堂々たる作風ですが、背後にロシア化がなかったとは思えない。
というわけで、本人はこの集団虐殺(ホロドモール)の最中に亡くなりました。
逝去したのが41歳で、この年に叙勲されたとはいえ、長年暮らした不衛生な生活環境が、不治の病=ガンの遠因となったことは明らかであったと、ウイキペディアが何とはなしにロシア化の圧政を匂わせていて、そんな不遇でも作曲を続けた彼に感銘を受けた自分なのでした。
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