会津若松城は、戊辰戦争後に取り壊されましたが、写真が撮られていました。
このため、どのような威容だったのかは、容易に想像がついていたのですな。
このため、再建をすること自体は可能で、残るは時期だけが問題なのでした。
一方、幕府側についた朝敵のせいか、明治政府にとっては士族の反乱が怖い。
このため、会津藩の象徴だった難攻不落の”鶴ヶ城”はどうしても破却したい。
こうして、明治政府の意向が強く働いて、朽ちるに任せた城郭は取り壊しだ。
でも、再建を望んでいた市民も多かったわけで、戦後になってとうとう実現。
まあ、同様な天守閣復興を果たした熊本城に遅れること、五年の歳月でした。
実戦で攻防戦の矢面に立った両方の城ですが、”鶴ヶ城”は落城とはかないな。
会津は賊軍と言われてしまいますが、城の美しさだけならば感銘を受けます。
方や、熊本城は西南戦争の西郷軍の激しい攻撃に遭ったものの、落城しない。
結果、損害がひどくて取り壊さざるを得なかったのですが、城あっての熊本。
そんな心持ちが熊本市民を動かして再建となったのは、会津若松も同じです。
市民の熱い希望と浄財によって再建されましたが、本体の内部は鉄筋構造だ。
でも、意匠は撮影された写真を下敷きにしていて、江戸期の城と同じだろう。
現在、お城の天守閣で江戸時代のものが、そのまま残されているのは12か所。
戦前はもっと多かったのですが、太平洋戦争で空襲で焼け落ちてしまったな。
広島城は、原爆で被爆しても焼け残りましたが、耐え切れずに潰れてしまう。
それで、空襲に遭ったお城は、国宝が多くて、名古屋城、岡山城などなどだ。
戦後、多くが復興されましたが、人々もおらが街のシンボルを希望したはず。
というわけで、赤瓦の屋根も美しい"鶴ヶ城"ですが、雪景色でも生える名城。
このほか、白虎隊記念館も見学すると、あの会津戦争の激しさがわかるのですが、他方、新政府軍に激しく抵抗した友軍の長岡藩は。戦火で城下の大部分を失い、その後、城は石垣や堀を埋め立てられて徹底的に破壊され尽くしたのを見ると、再建に必要な石垣など遺構が残って幸いだったなと思うのでした。
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