2015年6月29日月曜日

どうして、日本でスキーが冬の生活用品として発達してこなかったのだろうか - 雪中歩行用具(新潟県)

北越雪譜のカンジキ+カスリ

自分のプロフィール写真なのですが、雪中歩行をする老翁に見立てました。
雪国の重要な生活用具であるスカリを履いていますが、かんじきの親戚です。

先につけた縄ひもを手で持ち上げて歩行を助けるため、雪を漕ぐと言いました。
ドカ雪が積もった後、雪が深いのですっぽりはまって、足を取られて歩きにくい。

このため、体重を大きな面の履物で分散させようとした、生活の知恵です。
こうすれば、やさしく雪を押さえつけられるので、ミズスマシのように歩けます。

冬場に雪害で悩まされる地域の人にとっては、昔から必須の道具でした。
ところで、絵をよく見ると分かりますが、かんじきにスカリを装着していますね。

ダブルで使用したということは、元来かんじきを履くだけでも用を足せました。
つまり、雪が締まって来ると、かんじきだけでも歩行には難儀しないものです。

あるいは、このスカリを履いた人が先頭に立って、先ず踏み跡をつくります。
続いて、かんじき歩きの人が並ぶような、行進に役立ったのかもしれません。


ところで、集団で狩りをするマタギ(猟師)では、頭領をシカリと呼びました。
スカリとも呼んでいたそうですが、これって雪中歩行のスカリと同じですね。

漢字では、”縋”(すがる)と当てていますので、集団行動を指したのでしょうか。
どちらも、先頭に立って行動しますので、案外、語源は同じかもしれません。

北越雪譜のスカリ・カンジキ

さて、最近はスノーシューとか洒落た言葉づかいになりましたが、邪道でしょう。
やはり、日本人なら伝統の古民具として使われた呼び名を使いたいものです

この絵なんですが、幕末に刊行した書物、「北越雪譜」から拝借いたしました。
著者は、鈴木牧之といって三国街道塩沢宿で商人をしていた文人画家です。

越後魚沼の雪国の生活を写した書籍でして、雪国百科事典ともいうべきか。
1837年(天保8年)に江戸で出版されると、当時のベストセラーになりました。

本書には、挿絵が数多く掲載されていますが、作者が原画を描いています。
雪国の人々が雪との厳しい闘いに耐えて生活しているのを、知ってもらいたい。

本人の思い入れが込められているようですが、無論、スキーなんかありません。
当時は、雪中を歩行する用具に止まって、滑って楽をする発想がないのです。

思うに、越後の冬は、気温が比較的高めなので、湿った重い雪が積もります。
豪雪地帯には違いないのですが、道路の雪を溶かすのに水を使うぐらいです。

だから、サラサラした軽い雪と違って、摩擦が大きくて滑らないかもしれない。
しかも、盆地から競り上がる山林も急で、滑られる斜面も見つけずらいのです。

結局、スキーのような用具は発達しなかったとしても、致し方のないことです。
ならば、北海道のような大地が広がり、寒冷の土地柄なら、どうなったのか。

昔は、蝦夷地と呼ばれ、先住民族としてアイヌの人たちが住んでいました。
ところが、調べたんですけど、カンジキのような歩く用具だけだったみたいです。

ストーを履く樺太原住民

それでも、北方民族と交流のあった樺太アイヌは、しっかり活用しておりました。
犬橇のほかに、この便利な道具、スキーを使って冬の狩猟をしていたようです。

名前はストーといい、滑走面にアザラシの毛皮を張って滑り止めにしていました。
毛の方向が均一で、登りは逆立って滑らず、下りは毛が寝てよく滑る特徴です。

それで、この絵は江戸時代に編纂された『北蝦夷図説』で、紹介されました。
実際、探検家、間宮林蔵が行った樺太探検で見聞したことを基にしています。

短いスキーに乗っている原住民が描かれていますが、どう見てもスキーですね。
小手をかざし、獲物でも探しているので、重要な生活用具だったのが分かります。

一方、スキーの発祥はかなり古くて、数千年前にさかのぼると言われております。
遺物も、紀元前二千数百年頃と見られるものが、北欧で発見されていたとか。

神話にもウルというスキーの神様が出てくるそうで、生活に密着していたのです。
それに、中世の頃、ノルウェー北部の戦(いくさ)で、スキー部隊が活躍しました。

つまり、狩猟を生活の糧にした北方民族には、スキーは生活必需品だったのか。
それが、シベリアを経てはるか樺太(サハリン)まで、伝わったことにしておきましょう。

というわけで、明治時代、日本で本格的にスキーが伝えられたのは、学校教育の体育の一環だったり、レルヒ少佐のように軍用目的だったりしたわけでして、湿った重たい雪と山がちな国土の日本ゆえに、生活用具として定着すること自体、かなり無理があったのだろうとも、納得するのでした。


おまけ:
日本スキーの発祥前史についての文献的研究
Author(s) 中浦, 皓至
Citation 北海道大学大学院教育学研究科紀要, 84: 85-106

会津地方における仕事着の名称をめぐって
神奈川大学  国際常民文化研究機構
佐々木長生 著



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2015年6月26日金曜日

「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌嘗めたか」って訪ねても、当時、冬場はしまっていたと思うよ - 雲洞庵(南魚沼市・新潟県)

雲洞庵拝観券

越後は雪深い里なので、冬場に物見遊山で訪ねる人などいないでしょう。
もし、雪見がてら出かける奇特な御仁がいたら、後はめぼしいのは温泉です。

越後湯沢や十日町など名の知られた温泉郷に加え、温泉宿が点在しています。
そして、冬場にそれを補ってくれるのが、スキーというスポーツレジャーなのでした。

こうして、一年を通じて重要な観光資源というのは、一応、揃ってはおります。
豪雪地帯だし、神社仏閣、名所旧跡を、わざわざ冬に訪ねる人はいないはず。

それでも、魚沼のエリアには由緒のある、訪ねておきたいお寺があるのです。
実際に、五月連休の旅行で拝観させていただきましたが、改めて納得しました。

前の投稿では、石打地区の関興寺を先ず紹介しましたが、次は雲洞庵です。
”雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌嘗めたか”って対句になるほどの古刹。



赤門から入る参道には、敷石の下に一石一字の法華経が埋められています。
なので、古来より参道を踏みしめて参詣すると、御利益があるとされて来ました。

他方、この庵で禅を学ばなければ、一人前の禅僧とは言えない意味もあるとか。
お互いに禅の修行を励ましあった合言葉が、起源になったとも伝えられています。

ここは、以前に真冬に訪ねたところ、開いている気配もなく、あきらめて帰りました。
たぶん、スキー場へ行った帰り道だったと思いますが、実に残念だったのです。

そこで、改めてホームページを見ましたが、今は冬場でも拝観ができるようです。
ただ、冬は日照時間が少し短くなっていますので、三時半で閉まってしまいます。

じゃあ、なぜ拝観できなかったのと思いましたが、それは入り口のせいです。
今回の訪問で判明しましたが、長い参道が閉められていて脇から入りました。

そこで、拝観料の受付があるのですが、駐車場から道順の説明もありません。
少し迷いながら歩き回って見つけましたが、地味な感じで多少戸惑いました。

敷石の下に一石一字の法華経
苔むした仏像に由緒を感じます

この庵なんですが、NHK大河ドラマ「天地人にも登場して有名になりました。
主人公、直江兼続の幼少期、与六が上杉景勝の小姓として雲洞庵に来ます。

この子役がかわいくて、”わしはこんなとこ来とうはなかった!”と悔やむのです。
この台詞自体が有名になって、ご当地はちょっとした観光ブームになりました。

なので、ひょっとして、この兼続人気で冬場も開けるようになったんじゃないのか。
そんな気もしてきましたが、自分的には拝観もできたことだし、良しとしましょう。

ところで、味噌なめたかの関興寺は、冬場は拝観をお断りしているようです。
理由も、雪のためとありますので、雪国、越後ならではとも思ってしまいます。

この雲洞庵ですが、宝物殿の古文書が一気に戦国時代へタイムトリップします。
武田信玄、武田勝頼、上杉景勝の書状が展示され、歴史好きにはたまらない。

というわけで、とあるブログでは、これらを写真付きで紹介していましたが、本当は撮影が厳禁なはずなのに、こっそり撮ったような感じでして、改めて見直してみると、これらの古文書だけを見に行ったとしても、いかに由緒のある庵なのかと、感銘せざるを得ないのではないかと思うのでした。


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2015年6月23日火曜日

例年の通り、今シーズンの滑り納めは五月連休になったのだ(その一)-ファースト石打スキー場・関興寺(新潟県)

ファースト石打スキー場
復活は全くなさそうです

今シーズンの滑り収めは、五月三日の奥志賀高原でスキー納めになりました。
首都圏から、遠路はるばると出かけていく分けですから、観光もしたくなる。

スキーをしない上さんも一緒に連れて行きますので、物見遊山は必要です。
ただ、この頃の天気は意外に安定しないので、滑走する日が決められません。

春スキーは、ピーカン照りの青空の下で、思いっきり滑りたくなるものです。
やはり天気が重要で、雨降りで滑りたいほど、スキーに入れ込んでもいない。

そこで、周辺の地域まで足を伸ばして後で、天候に応じて滑ることにしました。
宿泊先も決めていなかったのですが、ホテルやロッジも見つけて押さえます。

それで、結果的には奥志賀で滑りましたけれど、初めはスキー場も決めません。
五月連休に滑走できそうなエリアを選んで出かけたので、新潟を目指します。

関越道で湯沢に入ってしまえば、営業中のゲレンデ選びに先ず苦労はしません。
苗場、かぐら・田代、ガーラ湯沢、奥只見丸山とスキー場が点在しています。

つまり、天候によっては滑走を前倒して楽しんでしまおうという魂胆なのでした。
それに、かつて滑ったスキー場の現在を、一つだけ再訪してみたくなりました。

それは、ファースト石打スキー場で、ゲレンデ中腹にある集落の通行方法です。
ゲレンデが奇妙なレイアウトで、駐車場から中級コースが待ち構えております。

普通なら初心者コースが当然ですが、リフトを一本上がらねばならないのです。
そこには、ロッジや旅館が固まっていたのですが、車で上がれるのかどうかでした。

通行路があるのなら、それを実際に運転して廃墟を見聞して見たくなります。
その一方で、神社仏閣、日帰温泉など観光スポットの目星も調べ上げました。

こうして、まずは塩沢石打ICを降りてから、ブラリ旅を始めることにしてみました。
この石打スキー場ですが、たどり着くには湯沢方向へ少し戻らねばなりません。

麓の駐車場までは簡単にたどりつきましたが、中腹に上がる道路は厄介です。
カーナビを見ながら走りつつ、遠く回り込むように高度を上げて運転します。

たどり着きましたが、スキー場の施設はあらかた撤去されてしまいました。
リフト降り場や管理センターの建物の基礎らしいコンクリートだけが残ります。

青空の下、なんとも変わり果てたスキー場の廃墟が、物寂しさを伝えます。
未だ使えそうなロッジも残されていて、何となくいたたまれない気もしました。

関興寺
なめ味噌写真
一つ、五百円なので手ごろなお土産
お寺からリフト乗り場が見える

まあ、長居は無用とすぐに後にして、お隣がゲレンデの関興寺へ向かいました。
ここは、なんと石打花岡スキー場に隣接して、リフト乗場は目と鼻の先です。

以前の記事でも紹介した通り、なめ味噌が有名で自分も買ってしまいました。
樹脂と陶器の壺(容器)が選べるのですが、樹脂だと五百円で手ごろです。

本堂には休憩できる場所もあり、その中でお土産の味噌も売られております。
”関興寺の味噌なめたか”という、戦国時代からのキャッチフレーズなんだとか。

まあ、値段を考えると拝観料ということで、訪ねたら買うのは当たり前でしょうか。
面白い看板があり、でぶやという番組の収録が行われたと説明していました。

どうも、まいう~で知られる石塚さんが来たらしいのですが、知りませんでした。
このお寺ですが、隣が本当に石打花岡スキー場で、民宿街に位置しています。

どうも、冬の季節では名所旧跡が雪に埋もれてしまって、見当が付きません。
こうして、春になって雪かきで溜まった雪を除けば、風景は一変するのでした。

というわけで、ようやく、この寺の所在も分かったことだし、あの頃は、ただひたすらスキー場を目指していただけだったというのも分かって、スキー旅行にもゆとりがあってよかったのではないかと、今さらながら思う始末なのでした。


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2015年6月20日土曜日

大規模なゲレンデは分かるけど、ゴンドラがない理由はなんなの? - 上越国際スキー場(新潟県)

平成4年2月16日滑走

このスキー場は、所在が新潟県の中越地方南魚沼市なのです。
県内で上越地方といえば、かつての高田・柏崎の上越市ですから違います。

どうして、上越国際と名づけたのかは定かではありません。
でも、上越新幹線と名づけられた路線は、中越地方を走るのです。

昔は、越後を上越と下越に分けていたのが、時代が下って中越も加わりました。
なので、古い地名区分をさば読んで上越と呼んでも構わないでしょう。

一方、新幹線は金沢まで延伸したので、本当の上越地方を抜けて行きます。
ところが、目的地の金沢を尊重されて、命名が北陸新幹線となってしまいました。

何れにせよ、上越市の皆さんは、新幹線で東京のアクセスがよくなりました。
便利さが勝ればよいので、名づけ方なんてどうでもいいのかもしれません。

このゲレンデは、規模から見ても中越地方で石内丸山と双璧をなす巨大さです。
リフトの数も20本以上ありますが、どちらにもゴンドラがなくて少し不便です。

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雪が激しい時は、ゴンドラに乗りさえすれば、つらい思いをせずに済みますね。
キャビンの中も多少は暖かいですし、寒さをしのいでくれるのが助かります。

実際、自分が滑った日は、ひどい吹雪でして、リフトにじっと座っていられません。
吹きすさぶ雪が顔に当ってくるわで、フェイスマスクを持ってくればと悔やみました。

それに規模は大きいんですが、複雑な地形があだとなってレイアウトが今一です。
垂直の標高差も少ないせいか、ゲレンデが横に広がりすぎている感じもします。

コースとリフトをつぎはぎした印象がぬぐえなくて、移動に非常に時間がかかります。
ベースのグリーンプラザホテルからは、山頂まで数えたら六本もリフトが必要でした。

駐車場も三箇所に分かれていて、行き来するのに小一時間もかかったりします。
何しろ、標高千メーターの当間山の稜線をはさんでゲレンデが広がるのです

結局、一日で滑りきろうとするのは無謀で、堪能するには二日は必要でしょう。
どのコースをどのリフトで上がって滑るとか、十分なプラン作りをお勧めしますよ。

さもないと、行き当たりばったりで乗れば、どこを滑ったのか分からなくなります。
せっかく、スイスのチロル地方を模した洒落たグリーンプラザホテルが泣きますな。

一方、系列の白馬グリーンプラザが、白馬のイメージ分だけ高級さで勝っています。
だから、ゲレンデレイアウトに、もう一工夫があっても良かったんじゃないのでしょうか。

というわけで、このスキー場をとにかく滑りまくりましたが、どんなゲレンデだったのか、イメージの涌かないままに散漫に一日が終わってしまった印象だけが残りまして、吹雪のせいもあったのでしょうが、このままでは済ませられない気もして、捲土重来でもう一度滑りに出かけてみたいとも思うのでした。


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2015年6月17日水曜日

勝手に名づけた片品ゲレンデ国道は、日帰り温泉エリアでもあった - 道の駅白沢・望郷の湯(群馬県)

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道の駅は、普通は主要道路に沿って作られるものですが、ここは違いました。
交差点に大きな看板が掲げられているのですが、そこを曲がって入るのです。

しかも、脇道に入るような奥まった感じで、二車線あるかないかの細さでした。
ただ、袋小路みたいな道の駅でも、日帰り温泉がメインで規模もそこそこです。

温泉を掘り当てたから、そこに作らざるを得ず、場所が外れたのでしょうか。
でも、本当は露天風呂の見晴らしを優先していたのが、行ったら分かりました。

なんと、露天風呂が断崖の上に設けられているせいで、見晴らしがすばらしい。
片品川の侵食で作られた谷底までは、切り立つように百メーターもあります。

その途中、段差を下がると、テラスのように田畑と人家が広がっていました。
地理学にある典型的な河岸段丘の地形だと、一見して分かって実に面白い。

片や、日本一長い信濃川の地形も、ゲレンデから眺められる特色があります。
マントパーク津南スキー場からですが、過去の記事で紹介させていただきました。

まあ、学校で学ぶよりは実際の風景を眺めるべきで、ここはひな形なのでした。
ところで、この国道120号は、金精峠を経て栃木県日光市につながります。

一方、片品の市街から国道401号線に折れると、尾瀬の観光ルートに入ります。
どちらも、周辺にスキー場が点在していて、勝手にゲレンデ街道と名づけました。

ただ、その途中にある椎坂峠は、山道特有の急カーブや急坂が連続します。
登坂車線もあって、冬場の雪道運転がスリル満点で、交通の難所でした。

それでも、特徴的なゲレンデが点在しており、このエリアは人気がありました。
スキー渋滞なんか当たり前ですが、交通のネックは、かなり大きかったようです。

だからと言うわけではないんですが、首都圏から日帰りスキーは少々きつい。
もし、日帰りの強行軍なら、帰り道は温泉でも寄ってのんびりしたくもなります。

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なので、この望郷の湯はピッタリでしたが、加えて椎坂トンネルも開通しました。
バイパスで所要時間が大幅に短縮され、もっと温泉でゆったり休めるのです。

しかも、この周辺はやたらめったに日帰り温泉の施設が、集中しておりました。
自分が未だ行ったことのない温泉も調べ直してみて、リストにすると驚きです。

① 道の駅「白沢」・望郷の湯(沼田市・白沢町)
② 南郷温泉しゃくなげの湯(沼田市・利根町日影南郷)
③ 日帰り温泉昭和の湯(昭和村)
④ 花咲の湯(片品村花咲)
⑤ 川場温泉センター いこいの湯(川場村)
⑥ 尾瀬ぷらり館 戸倉の湯(片品村戸倉)

設備的には①~④がまったりできる規模ですが、どうしてこんなに集まるのか。
もっとも、沼田市は平成の大合併で、白沢村と利根村を吸収しておりました。

となると、村おこし・町おこしで、観光客の誘致として自治体がこさえたみたい。
というわけで、合併しなかった自治体は、住民の憩いの場として温泉施設を設けたりして、乱立気味な状態は否めないのですが、そんなことは露知らずのスキー客・行楽客は、楽しんで体を休めるだけなので、ここは日帰り温泉さまさまといったところなのでした。


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2015年6月14日日曜日

北海道の尾瀬と呼ばれる高層湿原は、本家に負けていない - 雨竜沼湿原(北海道)

湿原と暑寒別岳

静かな湿原巡りをしたいのであれば、この雨竜沼が一押しです。
尾瀬に比較すれば、訪問者は、本当に圧倒的に少ないのでした。

七月末の夏休み、上さんと一緒に訪れた時、数組の登山客ぐらいでした。
人気がまばらなので、ヒグマが頻繁に出没するため、警戒情報がでます。

ベースキャンプの雨竜沼湿原ゲートパークに戻ると、レンジャーがおります。
どんな登山客が登ったのか、ヒグマに襲われていないか、訪ねられたのです。

それほど、静寂に包まれていますが、これが高層湿原の本来だと思いました。
もっとも、湿原からは高山植物の美しい暑寒別岳まで登り詰められるのです。

一組の夫婦が戻っていないようでしたが、山頂を目指したと思われました。
ここは雪が豊富なため、山開きは、例年六月中下旬まで待たねばならない。

そして、無数の花々が咲きそろうのは、八月上旬までの短い夏の間だけです。
十月にもなれば閉鎖されてしまい、それ以降は下界とのつながりを断ちます。

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万年雪を抱いた暑寒別の山々も雄大で、多くの登山者を魅了しております。
ゆえに、”北海道の尾瀬”とも称されますが、あまり知られておりません。

麓の雨竜町市街からは、バスのような公共交通もなくアクセスが不便です。
一方、本家の尾瀬では、麓の駐車場から連絡バスが頻繁に出ています。

ついこの間、人生で始めて尾瀬を訪れましたが、この雨竜沼を思い出しました。
尾瀬は、休日ともなれば、観光客で芋洗い状態ですが、あちらは全く違う。

湿原の木道も朽ちたままに、手入れもなされず、自然のままに残されています。
そして、ヒグマに襲われる恐怖も感じますが、尾瀬のツキノワグマはかわいい。

襲われてもケガ程度でしょうが、ヒグマは遭遇すれば、死を意識せざるを得ない。
尾瀬では、熊よけ鈴を鳴らすハイカーを見かけて、思わず微笑んでしまいました。

何の花なのか分からない

自然の厳しさから見れば、尾瀬は依然として人に対して寛容かもしれない。
他方、手つかずの荒削りな雨竜湿原は、北海道の気候の厳しさによるのか。

学術的にも貴重な湿原なので、北海道の天然記念物にも指定されました。
暑寒別天売焼尻国定公園でもあるし、ラムサール条約にも登録されています。

ただ、湿原の規模を尾瀬と比べますと、雨竜湿原は十分の一以下です。
規模だけで比較するのもどうかと思いますが、尾瀬に秘境の印象はありません。

行楽客の人も多かったし、山小屋も散在していて、郵便ポストもありました。
一方、携帯の電波は届いておらず、未だに連絡を無線通信に頼っています。

そして、食料はボッカの人が担いで運んでいて、湿原の桟道ですれ違いました。
不便さは今も昔と変わらないようですが、とにかく湿原でも人里なのです。

一方、雨竜湿原はクマやシカのすみかのまま、日中、ひっそりと人が訪れます。
澄み切った北海道の青空と、湿原のコントラストは、いうまでもなく美しい。

と言うわけで、尾瀬もすばらしい湿原でしたが、ここは雨竜沼をお勧めしたい。
尾瀬では、西日本の関西弁っぽいイントネーションでしゃべる観光客をよく見かけましたが、ここまで来れるのがせいぜいだろうな感じもしていて、東京周辺とか東日本に暮らしている人であれば、ぜひ、北海道まで足をのばして高層湿原のすばらしさを堪能してもらいたいとも思うのでした。

雨竜湿原の花の見頃 (年によっては若干異なります。)
六月 ミズバショウ・ショジョウバカマ・エゾノリュウキンカ・チングルマ
七月 エゾカンゾウ・ヒオウギアヤメ・ハクサンチドリ・ワタスゲ
八月 タチギボウシ・オゼコウホネ・エゾノヒツジグサ・ミヤマアキノキリンソウ
九月 エゾオヤマリンドウ


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2015年6月11日木曜日

ケネディ大統領が尊敬した鷹山公は、この白鷹山から名が取られたんだって - 町営白鷹スキー場(山形県)

平成4年12月29日滑走

伝国の辞

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、
        我私すべき物にはこれ無く候(そうろう)
一、人民は国家に属したる人民にして、
        我私すべき物にはこれ無く候(そうろう)

一、国家人民の為に立たる君にて、
        君の為に立たる国家人民にはこれ無く候(ろうろう)

(原文はWikipedia日本語版より)

白鷹町は、江戸時代の頃では、上杉十五万石米沢藩の領内にありました。
戦国時代は百二十万石の大身だったのですが、徳川政権下では窮乏します。

家臣団を減らさず、そのまま引き連れて引越したのが原因で、財政難でした。
このため、下級武士は困窮を極め、日雇人足までして収入を稼ごうとしました。

一方、藩の財政も商人から借金を繰り返す始末で、返済の当てもありません。
結果、打ち続く凶作と莫大な借財から、幕府へ藩の返上まで考え始めました。

徳川御三家の尾張藩に相談したのですが、思いとどまるように諭されています。
なんとも落剥した戦国大名の末裔ですが、それこそが名君誕生の背景でした。

それは、第九代藩主の上杉治憲(鷹山)ですが、藩政改革の功績は大きい。
でも、その偉業が日本でつとに知られるようになったきっかけは、海外発でした。

今から半世紀以上の昔、ケネディがアメリカ合衆国大統領に就任しています。
世界のリーダーとして42歳という若さもあり、日本でも大変人気がありました。

ある日、日本の記者団が、ケネディ大統領と懇談する機会に恵まれました。
その際、自分が尊敬する日本人は上杉鷹山であると、記者団に語ったらしい。

ところが、この記者団の中で上杉鷹山を知っている者は、誰もおりません。
なぜ、ケネディが鷹山のことを知っていたのか、これが日本で話題になりました。

そこで、この背景ですが、明治の思想家、内村鑑三の著作が先行しています。
日本を海外へ紹介しようとした鑑三は、著作で五人の日本人を取上げました。

その中には、この上杉鷹山も含まれ、著作はアメリカでも読まれていたようです。
つまり、冒頭の「伝国の辞」こそ、彼をして感動させた本質だったのでした。

鷹山は、家督を譲る世子の治広に、藩主の心得を伝授しようとします。
これを、分かりやすく現代語に意訳すると、次のようになりますがなるほどです。

一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない

一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない

一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、
  ”君主のために存在・行動する国・国民”ではない

これって、みなさんも、なんとなくどこかで見聞きしたような覚えはないでしょうか。
実は、日本国憲法の前文にも似ていて、元々はリンカーン大統領の演説です。

大統領は、奴隷制の存続を巡って起きた南北戦争の最中に演説をしました。
ゲティスバーグ演説と言うのですが、この一部が憲法にも引用されているのです。

 そもそも国政は、
  国民の厳粛な信託によるものであつて、
   その権威は国民に由来し、
    その権力は国民の代表者がこれを行使し、
      その福利は国民がこれを享受する。

人民の人民による人民のための政治ともいいますが、正式には上の通りです。
これって、上杉鷹山の伝国の辞が伝える意味合いと、相通ずるものがあります。

つまり、伝国の辞は、現在の民主主義の理念に到達していた概念なのでした。
というわけで、今も尊称される鷹山公はスキー場のある白鷹山から取られました。

山頂には、福満大虚空蔵尊が建立され、鷹山公の揮毫した扁額を残します。
地元の住民にとって、農業・養蚕の神として山岳信仰の対象とされて来ました。

一方、昨年のことですが、この「伝国の辞」と故ジョン・F・ケネディ元米大統領の就任演説の一節を刻んだ二基の石碑も山頂に建立されたほどでして、英語で「国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国家に何ができるかを問おうではないか 大統領ジョンF・ケネディ 上杉鷹山の称賛者」と記されて、ケネディ大使のサインまで添えられた事実から、この逸話は本当に本当であったのだと思うのでした。


おまけ:
鷹山の伝国の辞とケネディ元米大統領演説の碑建立 山形・白鷹山
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歴史上の有名な名言で学ぶ英語「administer(治める)」

伝国の辞


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2015年6月8日月曜日

スキーで商売できない時期は、尾瀬に向かう乗り合いタクシーの運転手 - 鳩待峠~尾瀬湿原(群馬県)

尾瀬湿原の池塘に映し出された逆さ燧ケ岳

鳩待峠に着いてみたら、一本早い、戸倉に降りるバスの時間を過ぎていました。
本当は、朝九時半の発車に間に合わせて、至仏山荘を出発していたのです。

ところが、スイスイ歩けてしまって、目的よりかなり早めに着いてしまいました。
ただ、麓へ降りる乗客待ちの最後の乗り合いタクシーが、停車しております。

こうして、空車にしたくなかった運転手さんの計らいで、乗せてもらいました。
こんな帰り話を先にしたのも、往路のとんでもない経験があったからです。

前日は、早朝の始発となる四時四十分の乗り合いタクシーに乗り込めました。
朝の冷え込みが、季節にしては厳しくて、氷点下を割り込んでいたほどです。

このため、標高のある峠から、尾瀬の湿原へ下る桟道が、豹変しました。
見た目は木目だけで分からないのですが、表面が凍ってシャーベット状でした。

ツルツルと滑り出すのが恐ろしいし、桟道も斜めに傾いていてズルズル滑ります。
登山靴は硬い靴底のソールなので、歩けばまるでスキー滑走のようでした。

こうして、恐る恐る歩いても、すってんころりんで幾度も転んでしまいました。
これに懲りたせいもあって、翌日の帰り道は、とても慎重になってしまったのです。

朝もやから浮かぶ至仏山と水芭蕉

所要時間を五割増しにしたのですが、打って変わって桟道は乾いております。
つまり、この顛末がきっかけで、空車待ちタクシーに滑り込んだ背景だったのでした。

それで、この運転手さんとのお喋りが、スキー場にまつわるり話題になりました。
何でも、この乗り合いタクシーの運転手から、冬場はスキーの仕事へ切り替わるとか。

尾瀬岩倉スキー場で働くのだそうですが、実家は旅館を営んでいると聞きました。
スキーのレンタル業も、シーズン中には繁盛するようで、商売が手広い印象でした。

やはり、夏から秋は尾瀬観光で一稼ぎしたら、冬はスキーの本業にいそしむのです。
最近は、スキー・ボード客が増え初めて来て、レンタルも上向いているそうです。

どうやら、片品村のスキー場にも、ビジネスの落ち込みに歯止めがかかったみたい。
サバイバルできたスキー場も話題になりましたが、特に片品高原が輝いております。

ビジターセンターは、ぬいぐるみ君が歓迎

ファミリー向けに特化して、ミッフィーのキャラクターを採用したのも、アイデアの勝負。
そして、国体コースのある岩倉スキー場が、やはり地区一番のゲレンデには違いない。

そんなゲレンデの話題をする内に、戸倉の第一駐車場へは、あっという間でした。
豪雪地帯の片品村ですから、天の配剤たる雪が、尾瀬もゲレンデも生んだのでしょう。

というわけで、往路の乗り合いタクシーの運転手さんが話していたのですが、怪我人の救助でヘリコプターが二回出動したそうで、多分、アイスバーン化した桟道で転倒して、骨折したお客さんがいたのだと思われて、ミズバショウの季節は、尾瀬においては、まだ春が浅いのだと転んだ腰をさすりつつ、実感するのでした。


おまけ:
ミズバショウとリュウキンカ
山桜に蜜をとる蜂
ショウジョウバカマ、見つけるのが難しい
乗車券、クリックで拡大します



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