2015年2月11日水曜日

秘めた思いを胸に 北の大地を駆け抜けろ - 須原スキー場(新潟県)



冒頭のスローガンは、第52回全国中学校スキー大会で採用されました。
素敵だと思いますが、青森県野辺地中学の横濵汐莉さんが応募しました。

実は、彼女はクロスカントリーの選手で、コースを疾走する姿が思い浮かびます。
しかも、同県の中学スキー大会では、この中学が男女でアベック優勝しました。

リレー競技ですから、選手層が厚く、能力のある生徒が多いということでしょうか。
ポスターを描いたのも、同じ中学の蛯澤 舞さんでして、才能を感じさせます。

まあ、雪国の中学ゆえ、ウインタースポーツは身近な存在に感じるのでしょう。
一方、このスキー部ではブログも開いていて、部活が積極的なのも分かりました。

さて、この中学生のスキー大会ですが、昭和39年に第一回が開催されました。
以来、半世紀の歴史を経ていますが、この須原も深い係わり合いがあります。

先ず、新潟県中学スキー大会のアルペン競技が、ここで実施されてきました。
この他、中越選手権とか国体予選の競技会も、頻繁に開かれているのです。


グーグルドライブはこちらから全ページごらんいただけます

実際、自分もすべりに行きましたが、なかなか滑り応えのあるゲレンデです。
特に、全長1.4キロのクワッドリフトから滑りだすジャイアントコースが楽しい

ゲレンデマップを見ますと、ここが中学校スキー大会のコースになるようです。
飽きることなく繰り返し滑走を続けましたが、これほど堪能したコースも珍しい。

適度に左右に振られながら、スピードを上げてターンを繰り返して降ります。
一気呵成に降りたいところですが、体力の限界で意外にバテてしまいました。

しかも、待たずにリフトに乗れますから、ストレスも溜まらずに気分は最高です。
つまり、地元密着というより、知る人ぞ知る特別なゲレンデかもしれません。

まあ、奥志賀高原のゴンドラ沿いにあるダウンヒルコースと雰囲気が似ています。
滑走距離と標高差が少しコンパクトな印象ですが、それでも満足しました。

平成4年12月19日滑走

もし首都圏から出かけるとなると、ここは越後湯沢のゲレンデより遠方です。
手前には、岩原、石打丸山、など名の知れたゲレンデも集中しております。

なので、通り越してわざわざ須原までやって来るスキーヤーは、正に通でしょう。
しかも、この奥には魚沼大原スキー場もありまして、さすがに豪雪地帯です。

冬場の環境を活かした観光資源として、スキー場が十分に活躍しております。
というわけで、昭和38年にオープンしたゲレンデは、歴史の重みがありました。

時期的に見ても、中学校スキー大会と歩みを共にしてきた印象も強いのです。
つまり、競技スキー会場として、名前の知られたゲレンデだったことになります。

一方、スキーブームが過ぎ去ってしまうと、自治体の財政負担が重くのしかかる。
このため、魚沼市はスキー場条例を廃止して、運営を民間の手に委ねました。

これは、一昨年十一月のことで、施設などは三年間無償で貸与されています。
負担を軽くする配慮でしょうが、どこまで公的な援助を得ないでがんばれるのか。

三年後に施設の使用料を払える水準まで、経営を軌道に乗せてもらいたい。
そうなれば、映画「フラガール」のような、ちょっとしたスキー場版の地方再生へ向けた感動巨編になると思いますので、ここは踏ん張りどころで、がんばってもらいたいと思うのでした。


おまけ:
グーグルドライブはこちらから
クリックで拡大します
グーグルドライブはこちらから
クリックで拡大します
グーグルドライブはこちらから
    

いいねと思ったら、二つポチっとね!
にほんブログ村 スキースノボーブログへ
にほんブログ村 スキースノボーブログ スキー場・スノボー場へ






   

2015年2月9日月曜日

別名”みだらお”とは無関係に、ボルクルとダハシュタインでガッツに滑っていた - 斑尾高原スキー場 (その一) (長野県)

平成3年12月22日滑走

刊行からもうすぐで三十年になる、極楽スキーという本を、当時熱心に読みました。
当時、新人類と呼ばれた世代が、スキーブームを担っており、かれらが読者層です。

当時は、苗場と並んでミーハー(この言葉自体が死語か)が集まるスキー場でした。
文中、”去年の彼は今年もやって来るのかしら”と、ずい分色っぽい書きっぷりです。

イケメントと乳繰り合うのが楽しみで、期待に胸を膨らませるギャルかもしれません。
別名、”淫ら尾(みだらお)”と紹介していたのを覚えていますが、軽佻浮薄ですな。

バブル真っ盛りで、ペンションに泊まり、昼はスキーで夜はディスコへ繰り出します。
あわよくば、軽いノリのおねえちゃんを引っ掛けて、今宵はいんぐりもんぐりの世界。

栂池の”いっぱつがいけ”と双璧をなしたみたいで、華やかな時代もあったのでした。
若者には元気がありますし、不純な動機で興味をくすぐられたとしても仕方がない。

そんな時代を懐かしくも思うのですが、まさに自分もその世代の一人だったのです。
一方、この本ではスキー用具のさまざまなブランドがロゴ入りで紹介されていました。

みんな見栄張っ子でしたから、競い合ってブランド用品を購入しまくった時代です。
自分も、紹介されていたスキー板のボルクル、ダハシュタインのブーツを揃えました。

たいていは、シーズン落ちの春先に、かなり値下がりしたタイミングを狙っていました。
半額以下が楽しみで、特にボルクルの板は、三セットぐらい買い換えたりしたのです。

あの頃は、まだカービンぐスキーが登場してない頃で、非常に長い板を選びました。
しまいには、195センチの板で滑るようになりましたが、平板と呼んでいましたね。

平成16年滑走のコイン(記念用)

それで、斑尾は二回滑りましたが、自分的にはエポックメーキングのゲレンデです。
最初は平板で滑ったのですが、次はカービンぐ板の筆おろしゲレンデがここでした。

確か平成16年で、カービングが普通になっていた頃で、ずい分遅いデビューです。
それまで、大事にボルクルの平板に乗っていたのですが、新人類も年を取りました。

足腰も弱くなったし、上級斜面より中級の緩斜面で、ちんたら滑るのが好ましい。
ならば、無理せず曲がりやすい板にでも乗って、筋肉痛になるのを防いでみよう。

まあ、かつての新人類も年月に勝てず、中年オジジのとば口に立ったということです。
さて、カービング板は、圧雪バーンだと知らない内に加速するのが半端ありません。

短い板の割りに走行中は安定しているので、怖いもの知らずでぶっ飛ばします。
がに股開きを気にする余裕すらなくて、初めは板を操るコツがつかめませんでした。

グーグルドライブはこちらから
裏面もごらんいただけます

その内、滑る間に何なく操縦方法を体で覚えてしまったのですが、かなり楽です。
こうして、平板には暇乞いをさせたのですが、山スキー用は現役で使っております。

というわけで、みだらおの与太話とは無縁に、ガッツに滑りまくった自分がいました。
あの頃、リフト待ち一時間が日常的に見受けられ、並んで待つのが実に苦痛です。

なので、こんなゲレンデは敬遠しつつ、空いているスキー場で滑るようになってしまったのですが、時を経てカービングスキーで滑った時分には、余りにスキー客が少なくて驚いてしまい、人々は、まさに淫ら尾の目的が勝って遊びに来ていただけなんだと、ピュアなスキー野郎は思ってしまうのでした。


おまけ:
グーグルドライブはこちらから
リフト券裏面

注:コースマップ出典元→オールスキー場完全ガイド’95(立風書房)
  

いいねと思ったら、二つポチっとね!
にほんブログ村 スキースノボーブログへ
にほんブログ村 スキースノボーブログ スキー場・スノボー場へ






     

2015年2月7日土曜日

本州唯一、クマゲラの棲む山の環境保護は大事なんだ - 森吉スキー場 (その一) (秋田県)

グーグルドライブはこちらから
全ページご覧いただけます

森吉山はたおやかな山容で知られ、花の百名山でさらに知名度が上がりました。
ただ、余り知られていないのは、県立自然公園の指定に止まっているからでしょう。

もし、国立や国定に公園指定がなされたのなら、話は変わったかもしれません。
このため、観光開発が進んでいないのが幸いして、自然がよく残されています。

手つかずの広大な山塊でして、野生動物もさぞや安心して暮らせることでしょう。
マタギによる伝統的な狩猟も今では廃れて、ツキノワグマは気楽かもしれません。

それで、このパンフに載ったイラストの鳥が目を引きますが、和名はクマゲラでした。
日本に生息するキツツキの仲間では最も大きく、体長が五十センチもあります。

ウイキペディアより拝借

頭のてっぺんが赤い羽毛で被われていますが、なんともユニークな色合いですね。
実は、この奥森吉のブナ林で生息が発見されたのは、昭和五十年のことでした。

本州で初めて生息が確認された大発見だったのですが、比較的最近のことです。
まだ半世紀も経っていないのですが、これは、ブナ林で繁殖するのが理由でした。

しかも、営巣する縄張りが広いため、生息の密度が低くなり、見つけにくいのです。
巣穴も生きたブナの木を利用しますし、どうしても生命力のある樹林が必要です。

開発が遅れていたのも手伝って、この山は奥深くて人を寄せ付けませんでした。
これが、現在まで細々でもクマゲラが棲みついてこられた事情なんじゃないのか。

しかも、本州はこの地域と白神山地だけが生息地で、生息数が減少しています。
逆に、ブナが植生しない北海道は、普通に見られますので面白い感じもします。

実は、北海道のクマゲラは、マツ林に棲み付くので種類を選ぶ必要がありません。
北海道ならありふれた樹木で、原生林も未だ未だ残されているのが現状です。

こうしてみると、本州の方は環境に少し神経質で、そっとしてあげるべきでしょう。
今や絶滅危惧種ですが、スキー場の廃止がこの鳥を助けるのかもしれません。

平成3年12月30日滑走
午前中は、阿仁スキー場を滑走

というわけで、当初は森吉山山頂までゴンドラやリフトを掛ける構想がありました
阿仁側と森吉側を結ぶ大プランだったのですが、環境保護派の反対が強かった。

当然、このクマゲラやツキノワグマなど、生き物たちの天国は守らねばならない。
このため、当初計画よりかなり低い地点でのゲレンデ開発となったのも事実です。

結局、山頂開発計画は断念されてしまいましたが、両スキー場がつながっていないという実際にもかかわらず、リフト券が共通だったのが不思議で、この計画の名残であったのだろうなとも思うのでした。


おまけ:
クリックで拡大します
西武鉄道・東北地方パンフ
グーグルドライブはこちらから



いいねと思ったら、二つポチっとね!
にほんブログ村 スキースノボーブログへ
にほんブログ村 スキースノボーブログ スキー場・スノボー場へ






   

2015年2月5日木曜日

マタギの里は、僻地診療医をいじりまわす因習の地なのか - 阿仁スキー場(北秋田市営森吉山阿仁スキー場)(秋田県)

平成3年12月30日滑走

特にこのゲレンデが僻地医療と関係していることはなく、地域のトピックなのです。
しかも、事態の起こった自治体は隣村で、上小阿仁村ですからこじつけっぽい。

でも、スキー場のある阿仁と地名が似ており、どうしても思い出してしまいました。
この村は、人口が二千人台と過疎化も典型的に進んで、限界集落だらけです。

ここには、村で唯一の医療機関である上小阿仁村国保診療所がありました。
でも、平成20年以降、五年未満で所長医師五人が辞めることになったのです。

これは、住民がよそ者の医師をいじめ抜いたのではと、ネットでも噂になりました。
ウイキペディアで読みますと、この原因をムラ社会の閉鎖性にしている印象です。

事例① 昼食をとる時間がなく、診療所内で食事をしようとパンを買った。
 → その時、「患者を待たせておいて買い物か」と住人に責められる。

事例② 年間休日18日。土日や祝日も村内回り、お盆期間も診療を続けた。
 → しかし、盆明けの8月17日を休診にすると批判された。
   その理由は、「平日なのに休むとは一体何を考えているんだ」

事例③ 診療所向かいの自宅に「急患にすぐに対応できるように」と、発案。
 → センサー式照明を設置費用・電力費用を自費で設置した。
    ところが、「税金の無駄使いをしている」と苦情を言った住人がいた。

事例④ 自宅に嫌がらせのビラがまかれた。

事例⑤ 辞めていった医師の中には、村の広報紙に村人の対応について苦言。
 → しかし、何も改善されなかった。

ここまで書かれながら、村役場は事実無根だと削除の依頼もしていないのです。
と言うことは、住民には、このような性根の卑しい偏屈者がいるのかもしれません。

しかも、男尊女卑の激しい地域らしく、辞職した中には女医さんも含まれます。
それに医師の年収は二千万円だったとかで、妬まれる要素が無いわけでもない。

村民の収入が平均143万円では、やっかむ人が出てもしかたが無いでしょう。
これといった産業も無く、せいぜいマタギの里が観光客の誘致になるぐらいです。

スキー場のマスコット
やはり、クマさんがメインキャラ

何だかやるせない話ですが、スキー場は山一つ超えた場所で関係がありません。
滑った当時は阿仁町でして、ここにもマタギの里があったにせよ、別物なのです。

何でも、鎌倉末期に発見された阿仁鉱山は、金、銀、銅の採掘で栄たそうです。
明治期になり、外国人の鉱山技師も滞在しており、中央との交流もありました。

ただ、昭和53年にこの鉱山が閉山してしまうと、頼るべき産業もなくなってしまう。
残されたのは、奥深いブナ林の森吉山ですが、ここは観光に頼るしかありません。

この山ですが、地元から「秋田山」と呼ばれていて、知る人ぞ知る山塊なのです。
花の百名山にも選ばれたほどで、夏になると高山植物も一斉に咲き乱れます。

紅葉も美しいし、豪雪地帯の冬ですから、豊富な積雪も樹氷も期待できます。
しかも、地形図を見てもお分かりの通り、山頂へは穏やかな稜線が多いのです。

クリックで拡大します

こうなれば、リゾートのスキー場を作ろうとするのは自明の理にも見えますね。
あの頃はバブル景気にスキーブームで、しっかりとコクドさんが投資してくれました。

と言うわけで、オープンはスキーブームの真っ最中、昭和62年になりました。
ゴンドラも全長3.5キロと非常に長くて、林間コースを優雅に滑るのが楽しい。

シルキースノーのスロープですから、摩擦も少なくて引っかかることもありません。
これほどのゲレンデが、この時期まで開発されなかったのが、不思議なくらいです。

グーグルドライブはこちらから

ただ、当時は交通のアクセスが悪くて、オープンが遅れたのもこれが原因でしょう。
今は秋田能代空港も開かれたし、秋田自動車道も開通して便利になりました。

こうしてみると、かなり交通の機動性が上がったような感じなので、お隣の森吉スキー場が閉鎖された現在は、この地区にある唯一の大型スキー場として、今後も活躍を続けてもらいたいと、思うのでした。


おまけ:
グーグルドライブはこちらから
全ページごらんいただけます
クリックで拡大します


いいねと思ったら、二つポチっとね!
にほんブログ村 スキースノボーブログへ
にほんブログ村 スキースノボーブログ スキー場・スノボー場へ