2015年7月8日水曜日

半世紀を経たロープウェイは健在でも、ゲレンデはとっくのとうに閉鎖されていたのだ - 弥彦山(新潟県)

新潟県・弥彦山のロープウェイ頂上駅

弥彦山を麓の弥彦神社から、ロープウェイに乗らずに、ちんたらと登山してみました。
標高ですが、東京スカイツリーと同じ高さの634メーターと、登るには手ごろです。

現地の案内板や観光協会のサイトでPRしているそうですが、気づきませんでした。
元々、弥彦神社の祭神・天香山命を祀った山として、人々の崇敬を集めております。

別にスカイツリーに便乗せずとも、既に有名な観光地ですから蛇足は不要でしょう。
山の全体が神域で自然がよく残されており、海岸より突き出した山容も秀麗でした。

佐渡弥彦国定公園の指定を受けたのが、昭和25年と半世紀以上とかなり前です。
そして、ロープウエイは公園指定から八年後に開通ですから、見た目もレトロでした。

まあ、下山をする余裕が時間的になくなってしまい、麓へ降りるのに乗車したのです。
山は勇んで登ったのですが、その日のスケジュールが押してしまって、楽をしました。

 
それで、この山ろく駅の位置が非常に不思議で、駐車場からかなり距離があります。
このため、無料送迎バスが出る始末で、もう少し麓(ふもと)にしたらどうだったのか。
 
しかも、山頂駅は九合目にあって、弥彦山の山頂へは、一合分を登らねばならない。
つまり、あまりに中途半端な索道の掛け方になっていて、どうしてなのと思いました。

これは自分の想像なんですが、当時の技術力から言えば、これが限界だったのか。
それとも、霊験あらかたな弥彦神社に、観光開発もかなり気兼ねしたのでしょうか。

運営会社は、弥彦観光索道ですが、ホテルで有名な聚楽グループの一員でした。
伊東温泉のホテル聚楽といえば、ハトヤと並んで、関東に住む人ならおなじみです。

それで、家に戻ってから、弥彦山を思い出して調べてみたんですが、驚きました。
昭和50年頃までは、山頂部に小さなスキー場が存在していたのだそうです。

山頂駅では、昔の弥彦山周辺の写真が展示されていて、ネットで見かけました。
自分も、そんな写真があったような気がしますが、ゲレンデの写真は思い出せない。

どうも、山頂駅から北に向かう鞍部に小さなゲレンデがあり、ロープトゥもあったみたい。
今となっては昔の話ですが、現在でも、冬季には山スキーで登る人たちもいます。

弥彦山登山中風景

そんな弥彦山のハイキングだったわけですが、下山してからは国上寺を訪ねました。
このお寺は、俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端、国上山に位置しています。

良寛和尚の住んでいた五合庵があるのですが、かねがね行って見たかったのです。
寺を持たず、無欲恬淡な性格で、子供たちと遊び、そして庶民に愛されたお坊さん。

ただ、寺も山奥だし、庵は本堂から山道を少し下らねばならず、辺鄙な場所でした。
冬になれば雪も積もるだろうし、歳を重ねれば、体に無理などできなくなりそうです。

このため、和尚も還暦を過ぎて辛くなったのか、庵をたたんで山里へ移り住みました。
実は、この良寛さん、亡くなる時に、葬式とお墓代のために四十両も残していました。

これは、当時の庶民の年収を上回っており、充分な備えで意外にしっかりしています。
生涯、寺の住職にも付かず、托鉢で日々の糧を得ていた生活からは想像できない。


元々、庄屋の長男に生まれ、家業を継ぐはずだったのに出家してしまったと言います。
庶民の厳しい暮らしを見るにつけ、領主との間に立って差配をするのがやりきれない。

若くして名代になったがいたたまれずに、修行の道に救いを求めたのかもしれません。
そんな風にも思いましたが、ふと、同時代の禅僧だった仙厓義梵も思い出しました。、

仙厓和尚といえば、洒脱でユーモアたっぷりな画風の水墨画で名が知られております。
問題なのは、今際の際にのこした言葉でして、 「死にとうない」 とどうも言ったらしい。

付き添う弟子達が慌てて聞き返したところ、「ほんまに、ほんまに」 と繰り返す始末。
でも、良寛さんと一緒で、なぜだか人間くさい魅力に引き込まれるものがあります。

というわけで、五月連休の越後ツアーは、これでひとまず寺社めぐりを締めくくりました。
これから、終盤の奥志賀高原スキーと、いいやま菜の花祭りを訪ねる後半戦に突入したのですが、天候もまずまずで旅行を楽しめましたし、冬場のゲレンデめぐりとは違った、越後の風物を満喫したのでした。



いいねと思ったら、二つポチっとね!
にほんブログ村 スキースノボーブログへ
にほんブログ村 スキースノボーブログ スキー場・スノボー場へ





   

0 件のコメント:

コメントを投稿