グーグルドライブはこちらから 主要作品が紹介されています |
農民画家、神田日勝は、帯広の鹿追町で暮らしながら農業を営んでいました。
将来を嘱望されていましたが、急逝したのは、これからという年齢の三十二歳です。
死因は、腎盂炎から来る敗血症だったそうですが、無理を重ねたのかもしれない。
日中は農作業に明け暮れて、帰宅してから夜遅くまで描き続ける毎日だったとか。
体をこじらせ、はっきりとした病名が分からないまま、入院した矢先に旅立ちました。
もし、長生きできたならば、どんな作品を残していたのだろうと、つい夢想してみます。
それで、自分が彼の存在を知ったのは、北海道新聞が作品を紹介したからです。
昭和45年のことで、オフセットカラー印刷が導入されて間もない頃だと思います。
日曜付録版から全面ぶち抜きで、「室内風景」と言う作品が印刷されていました。
当時、カラー版は特別なページでしか目にすることが無かったので実に新鮮でした。
画題自体も、新聞が壁と床一面に張られた部屋で、男が一人うずくまっています。
印象的な絵で、子供心にしては上手いのか、下手なのか、よく分かりませんでした。
それと、うずくまる男の顔が日に焼けているのか、浅黒く類人猿風に見えてしまう。
まるで、学校の教科書に登場するネアンデルタール人なので、記憶に残りました。
室内風景(北海道立美術館収蔵作品) |
まあ、小学校高学年の子供が抱いた感想だとしても、致し方ありませんでしょう。
後年、大人になって、それ以外の作品も併せて鑑賞して、初めて理解できました。
ところで、この頃、自分の叔父も肝臓を患っていて、病名が分からないでいました。
母親も兄を案じたのでしょう、自分を連れて病院まで見舞ったのを覚えています。
札幌からは気動車の急行で、病院は芽室町にありますが、鹿追町は目と鼻の先。
やけに肌も目も黄色くて黄疸の症状がでたのだと思いますが、回復しませんでした。
葬儀にも出かけましたが、この神田日勝も、当初、死因ははっきりしませんのです。
まあ、当時、北海道の田舎の医療水準では、病状を探りかねたのかもしれません。
病名がはっきりせずに容態が悪くなってしまい、この世を去ると言うのははかない。
現在では医学も格段に進歩しましたが、それでも誤診があれば手遅れになります。
なぜ、そんなことを思い出しのか、それはタイの駐在生活の経験からなのでした。
ある時、知り合いでラオスに駐在していた張本さんに、偶然、病院で出会いました。
バンコク病院 日本人専用受付もあります |
それも日本人の通院するバンコク病院で、ひょっとして病が重いのかと勘ぐりもします。
こちらから話を聞くのは敢えて避けましたが、本人は、快方に向かっているとのこと。
ラオスの一番大きな病院でも、一週間、続いた微熱の症状を診断できないでいた。
これは、一大事になれば適わないと決断して、バンコクへ飛んだと話してくれました。
その結果、分かったのは風邪でもなくて、肝膿瘍(かんのうよう)という肝臓の病気。
病原は赤痢アメーバという細菌で、不衛生な屋台で飲食したことから起きるらしい。
発病の前、屋台で火が通った焼鳥を確かめてから食べたといいますが、それなのか。
東南アジアの旅行者にも多いそうで、発熱、倦怠感の程度では、疲れに見えます。
だから、手遅れになると死に至る場合もあるとかで、判断は正しかったと思いました。
そして、肝臓が化膿してうみが溜まるため、肝臓に針を刺して取り除く治療もします。
実際に、寝巻き姿の張本さんは、腹部からチューブを出していたので驚きました。
そのうみを吸い出す治療が痛いらしく、我慢がつらいのだと嘆くのがおいたわしい。
なので、長話では疲れも溜まりましょうから、そこそこに切上げて病院を後にしました。
というわけで、病名も分からずに治療も出来ないでいるのは、実に悔しいものです。
もう十年も前になりますが、自分もC型肝炎に罹っているのが分かって、副作用の強かった当時の薬の投与で、回復率五十パーセントから、無事に治療を終えて生還できた者としては、病名がはっきりしなかったら、自分が納得の行くまで、病院を変えて診察を受けるのもありなのかなと、思ったりもしてみたのでした。
いいねと思ったら、二つポチっとね!
病気は怖いですね。おじさんのお見舞いは北見から池北線で行かれたのですか?
返信削除私は今、サホロスキー場に来ています。バーンが堅く難渋しました。昨夜は帯広に泊まったので今日は芽室も通過しました。芽室は豊かな町ですが今年は台風被害でたいへんだったようです。
父親の転勤で、北見から札幌へ引っ越してから、根室本線で芽室に行きました。
返信削除まだ、石勝線のトンネルを掘っている頃で、狩勝峠を越えたということです。
あの頃は、急行「狩勝」で四時間半も掛かりました。
そうそう、南ふらのスキー場のゲレンデもなかなかのものです。