北海道知事 高橋はるみの揮毫 |
江戸時代の貨幣で言う一両は、現代のお金に換算すれば、十万円ぐらいでしょうか。
わずか十六歳の若者が、親から貰ったお金で、十年間も全国を放浪したと言います。
驚かないわけには行きませんが、徳川幕藩体制下、世の中が安定しておりました。
庶民の暮らしも豊かになり、伊勢参りや四国八十八箇所の遍路旅も流行します。
この少年の実家は、伊勢神宮のほど近い門前町で、庄屋として務めに励みました。
行き倒れになりそうな、お伊勢参りの旅人があれば、お世話したこともあったでしょう。
現代ほど、地方の色々な文物など、情報の集まらなかった時代に旅人が集まります。
郷里の四方山話に花を咲かしつつ、この少年も、興味をもって聞いたのでしょうか。
この体験が、十六歳で実家を飛び出て、全国を放浪するバックパッカーの原点です。
今風に言えばそうですが、あの当時は、なんと犬一匹でお伊勢まいりができた時代。
首輪に事情を記した但し書きをつけてもらい、行く先々で、餌や駄賃まで貰います。
そして、お参りを済ませて、無事に飼い主の家に戻ってきたという、嘘みたいなお話。
北海道の帰省中に企画展を見た グーグルドライブはこちらから |
なんと太平なことかと思いつつ、前置きのお話としては、微笑ましいものがあるでしょ。
ちょっと話が長くなりましたが、この放浪少年こそ、北海道に縁の深かった松浦武四郎。
まあ、北海道に渡るまでは、長崎の地で大病を患って、その縁で僧侶になっています。
でも、旅への思いも捨てがたかったらしく、ついに還俗して蝦夷地へ足を伸ばしました。
その行動も、松前藩御殿医の従者だったり、場所請負人の手代と偽ったほどなのだ。
こうして、まだ開拓されていない荒野の地を六度も訪れ、綿密な調査をものにしました。
ただ、あまりに密偵みたいな行動が、幕府から目を付けられ、身が危うくなっています。
こうして、尊皇攘夷の先鋒だった水戸公に助けを求めて、一次は身を潜めていました。
藩邸とは言え、馬小屋の中で寝起きしたらしいのですが、そこはバックパッカー元祖。
旅先では野宿も厭わなかったでしょうから、何とも思わなかったのかもしれませんね。
時は黒船来航で開国と、世の中が騒がしくなって、日本の国防意識も変わりました。
幕府も、蝦夷地と呼ばれた北海道を、松前藩だけに任せられなくなったのでしょう。
南端の渡島半島だけを領国に割り当てると、幕府は、蝦夷地を直轄地にしています。
一方、幕府にしても、内陸部へひとたび踏み込むと、地勢のありさまが分からずじまい。
こんな中、武四郎は、改めて江戸幕府の蝦夷地御用のお墨付きをいただきました。
こうして、各地に住まいするアイヌの人々からも、助けを借りて調査に出歩いています。
武四郎著作:天塩日誌より |
武四郎著作:蝦夷漫画より 札幌市中央図書館のアーカイブ |
この中、天塩川の踏査行では、丸太をくり抜いた川舟で、遡航したのかもしれません。
今なら、ここはカヌーのツーリングで有名になっていますが、本人は元祖だったのかも。
こうして、この旅の途中、アイヌの古老から一つのアイヌ語”カイ”の呼称を教わりました。
この言葉は、”私たちの土地、この土地に生まれし者”という意味を表したのだとか。
ご本人は、アイヌの人と意思疎通ができるほどに、アイヌ語が上達していたようです。
旅を続けながら、人々と交流を深め、その暮らしや生活にも触れ合ったからでしょう。
後年、明治政府の開拓判官になった武四郎は、蝦夷地の改名建議を提出します。
これは、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道という、六つの案。
最終的には北加伊道が選ばれ、東海道のように馴染み易い海の字を選び直します。
こうして、新しい北海道が誕生したのですが、意味は、私たちの土地だってことです。
つまり、命名に当っては、先住民であるアイヌの人たちに、尊重と敬意を表しました。
きっと、心に刻まれた言葉ゆえ、アイヌの人々の志を残しておきたかったのでしょう。
さて、この命名之地は、JR宗谷本線の筬島駅から、国道へ出て歩くと二十分ぐらい。
国道四十号線には歩道もろくにありませんので、通行する車両には注意しましょう。
入り口には、看板も立っていますので、右へ反れて下る砂利道を降りていきます。
これが意外に距離がありまして、熊も現れそうな鬱蒼とした木立の中を進みます。
こうして、ようやくたどり着いた場所には、説明看板に屹立とした記念碑が現れました。
知事の揮毫になる、地元産トドマツの木柱がすくっと立っているのは、武四郎の志か。
天塩川の川岸に設けられた記念碑は、道産子なら、感慨ひとしおのものがありましょう。
というわけで、筬島駅のそばには、アイヌの彫刻家、砂沢ビッキの美術館もありました。
倭人たちの搾取から、アイヌの人たちを守ろうと努力した武四郎が名づけた北海道の命名の地に、木に言霊を宿すかのように彫り続けたビッキさんの美術館があるのは、何かしら因縁を感じずにはいられないものがあるなと、思ったのでした。
おまけ:
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