平成元年12月9日滑走 |
あの金メダル三冠王、トニー・ザイラーがコース設計しました。
と言っても、その冬季オリンピックは半世紀以上も前の話。
時は昭和三十一年、1956年と言う昔語りになります。
若い人であれば、三丁目の夕日をイメージできるかも。
あの頃、日本は戦後から復興して間もない頃です。
貧しいながら、家庭の団欒や近所付き合いもありました。
そんな日本のささやかな一般家庭の日々です。
ところが、欧米ではしっかりオリンピックを開催しています。
特に冬季オリンピックなら、競技の世界は資本力です。
スキー用具の開発、スキー場施設の投資はビジネスになる。
山を切り開き、リフトのような索道も架けなくてはいけない。
スキー場のアクセスに便利な道路も敷設する必要が出てくる。
冬場のスポーツはまさに観光レジャー産業の延長線上です。
そんな開きのあった時代、日本人も銀メダルを取ってくれました。
猪谷千春氏が、回転競技でこの栄冠を手にしています。
開催地は、イタリア・コルティナダンペッツォでした。
でも、金メダルはこのトニーザイラー氏なのですよ。
しかも三冠ですから、上には上があるということです。
この方は美男子でして、引退後芸能界に転進です。
日本の映画「銀嶺の王者」にも主演しているくらい。
有名ですから、コースを設計・監修したとなると箔がつきます。
しかも冠名をいただいて、ザイラーバレーと名づけられました。
上に掲げたリフト券ですが、開所日そのものなのです。
初滑走日でもあり、記念式典が初めに行われました。
センターハウス前では特別にステージがこしらえてあります。
式典が進む中、驚いたことにザイラー氏本人が紹介されました。
その後、テープカットに加わったのですが、 人だかりでよく見えない。
わけの分からないうちに、 一斉の拍手とファンファーレが響きました。
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やれやれ、これでリフトが運行されるなと思って並びます。
それから、やっと乗れたのが30分後で、初すべりとなりました。
このスキー場、今は無き野辺山スキー場と目と鼻の先です。
似たように、晴天率は高くとも降雪量は内陸陸地ゆえ少ない。
このため、ゲレンデ整備は端からスノーマシン任せになります。
この日も、バーンは全面的に人口雪でこさえてありました。
もっとも12月初めなので、まだ暖かくて降る方が珍しい。
おそらく11月から、 この日に向かってせっせと降らせてきたのでしょう。
滑ってみた感想ですが、 コンパクトにまとまったコースレイアウトでした。
ただ、標高差が220メーターでは滑走距離も伸びて行きません。
それでも、 リフト2本を上手に使って上級コースを降りるのが楽しい。
合計3本のリフトでは制約もありますが、 そこそこに楽しめました。
と言うわけで、 せっかくのザイラーバレーも今やシャトレーゼへ改名です。
なんでも、 経営権がスイーツで有名なメーカーに委譲されたからとか。
かつての三冠王も形無しですが、 ケーキ屋さんのほうが家族受けするでしょう。
客層を広めるには、 お菓子に目が無い子供たちを取り込むのが一番です。
今やリゾートとして生き残るには、 ファミリー相手にあの手この手でPRするしかないと言うことなの でした。
おまけ:
リフト券(裏) |
注:コースマップ出典元→オールスキー場完全ガイド( 立風書房)
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