京都の人に言わせると、先の大戦というのであれば、応仁の乱を指すようです。
半分誇張された笑い話なのですが、確かに太平洋戦争の空襲は軽微なのでした。
米軍は文化財保護の目的から攻撃を控えており、京都の街は平穏だったらしい。
だから、戦火の記憶ははるか遡り、室町時代の合戦が記憶として生々しいのだ。
この大乱は、室町幕府の領袖達が、東軍と西軍に分かれて権力闘争を繰り返す。
その東軍の大将が細川勝元は、公家より譲り受けた領地に寺を建立致しました。
それが龍安寺ですが、このお寺は、世界遺産に登録された石庭で有名なのです。
ただ、この寺は、応仁の戦乱に巻き込まれて、焼失の挙句、細川邸へ疎開した。
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| 元総理大臣 細川護熙作 |
なので、創建当初から石庭が存在したかどうかは怪しくて、再建からのお話だ。
子息である政元が、お寺を当初の境内に戻して、石庭を含めて再建したらしい。
でも、それが現在あるような石庭の意匠だったのかは、諸説あって分かれます。
夢窓疎石、金森宗和、小堀遠州など、作庭の候補に挙がったが、確証がないの。
中でも、小堀遠州などは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名です。
茶人、建築家、作庭家、書家として知られますが、理由は遠近法の手法だとか。
西欧のルネサンス期に採用され始めた技法ですが、キリスト教伝来で伝わった。
戦国時代、小堀遠州も、キリシタン大名を通じてその手法を仕入れていたのか。
江戸時代初期に造営された京都の名のある庭園は、遠近法が使われていますな。
そういうことで、作庭者は小堀遠州だという説もありますが、どうでしょうか。
まあ、自分には誰が作ろうが美しければよいのであり、修学旅行以来の再鑑賞。
半世紀ぶりに改めてこの石庭を眺めれば、老いた身で培った審美眼から分かる。
というわけで、昔は石庭より池を中心とした池泉回遊式庭園が有名だったとか。
高校の修学旅行で訪れた時には、この石庭を見学した記憶だけが残っていて、境内中心部に大きく広がる鏡容池のことなど全く記憶になく、今回、池をめぐり散策しながら紅葉を楽しめましたが、それこそが違った龍安寺のたたずまいになったということなのでした。










