2018年12月30日日曜日

最盛期の昭和五十年代後半には、年間2~3万人の集客があったというゲレンデなんだ - ロッセ高原スキー場(高山市丹生川町呂瀬金山・岐阜県)

スキースクールのHPが残ってるよ!

このゲレンデは、当時のゲレンデガイド本でも見かけない幻のスキー場でした。
出版社によっては掲載されていたようですが、掲載料を惜しんだのでしょうか。

ただ、ロッセという地名がドイツ語っぽく、洒落た命名だと思ったほどなんだ。
だから、興趣を誘われましたが、関東圏に住む自分としてははるか遠隔地です。

場所が高山と言う観光地しか知らず、訪れるのになかなか機会が見つからない。
それでも、やっとこさ滑ることが出来たという思い出を残したゲレンデでした。

この地名ですが、付近が呂瀬金山の集落なので、単に片仮名にしただけの事。
”呂”は、地名でも比較的珍しい漢字で、他方、三国志の武将に呂布がいたんだ。

まあ、横山光輝が書いた漫画が好きで、登場人物を知っていたからこそです。
正式名はロッセスポーツランドですが、知る人ぞ知る人の穴場だったのかも。

調べたら通年のスポーツ施設のようで、モトクロスレース場までありました。
中部選手権も行われたとか、思い出のある人がブログに書き残しています。

ただ、それらの施設がすべて撤去されていて、跡形も無くなっている感じね。
形跡としては、リフト動力機の基礎とかゲレンデの斜面が放置されています。

元の林野に戻すのは、この先、何十年になるから、場所は特定できましょう。
一方、ロッセの肩書きは、付近に”ロッセ農場”があり、面影を残しています。

養豚場とのことですが、ドイツ語っぽいイメージでヨーロッパ感が漂います。
ソーセージにしたら美味な印象ですが、地形的には谷あいの小さな平坦地。


だから、ロッセ高原スキー場とも称したわけですが、付近は化石の産地なのね。
地学的に飛騨外縁帯のデボン系呂瀬層と呼ばれて、貝や樹木の化石が出るんだ。

研究論文も発表されており、投稿を書くためにネットで調べて分かりました。
結局、ゲレンデ以外の情報がそこそこに見つかって、原稿が書けるものです。

面白いと思いつつ、改めて思い出したのは、スキー場にある古風なリフトです。
三基ありましたが、真ん中の一基は、35度の壁の頂上まで運んでくれました。

リフト支柱が鉄橋にあるトラス構造と同じで、現在の円筒形と違っていました。
しかも、支柱で索道を受ける車輪(索輪)を、通過するときの音が懐かしい。

リフトを索道に固定した握索が少し盛り上がっていて、金属の車輪に当ります。
そうするとカランカランと音を立てるのですが、現在だと音がしませんよね。

車輪の内側がゴム製でショックを吸収するので、策動の通過音しかしないんだ。
ワイヤーを撚った索道のため、ジィージィーぐらいでやかましくもありません。

とうわけで、幸運にも、所有者から引き継いだ食堂が運営した年に滑りました。
その後は、継続して営業が適わなかったようで、この一年だけの延長となりましたが、自分の滑った日は、何かのスキー大会が行われており、食堂が混雑していたことを思うと、懐かしさがこみ上げてきますが、栄枯盛衰と言うものは致し方ないと思ったのでした。



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2018年12月27日木曜日

むかしむかし、タイヤル族の勇敢な頭目タロコの名前から名づけられたんだってさ - 太魯閣(タロコ)峡谷(花蓮県・台湾)

太魯閣峡谷

もし、観光地の展望台で眺めていて後ろから手で押されたら、どう思いますか。
しかも、それが不意に押しのけられそうな感じなら、失礼な奴と思うでしょう。

郷里で上さんがそれをされたんだけど、相手はどうも大陸の支邦人みたいだな。
失礼でしょって北京語で諭してたけど、サングラス掛けてケバイ派手な身なり。

どうも、写真を撮りたかったみたいだけど、どうして一言声を掛けられないの。
家族連れでしたが、未だに中共の広東では新鮮な赤ん坊の胎盤を食べるらしい。

四足ではテーブルと椅子、空飛ぶものは飛行機、それ以外は何でも食う非常識。
それで、そんな不快な思いをした旅行だったけど、それ以外はベストでした。

特に見逃せないと思ったタロコ(太魯閣)峡谷は、日本の黒部峡谷に匹敵だよ。
まあ、黒部はトロッコ列車に乗って見物するけど、こちらは国道が通るんだ。

八号線と言って主要道路らしく、頂上の稜線部で14甲の国道に合流します。
その先に、国道最高地点の武嶺に到着しますが、標高は三千メーター超えだ。

日本の山岳道路より高所を通過するんだけど、そこまでは行きませんでした。
まあ、今回はタロコ峡谷に絞って観光したので、次回の楽しみにしましょう。

右上が太魯閣峡谷、左下が清水断崖

それで、どうして子供の頃から知っていたのかは、切手になっていたから。
一頃、切手収集が趣味としてもてはやされた時代があって自分も集めました。

国宝シリーズとか、将来値の付きそうな記念切手を、並んで買ったりしたな。
戦前には第一次国立公園シリーズが発行され、この峡谷が図案になりました。

もちろん、台湾は、戦前、日本の版図で台湾総督府が置かれていたのですな。
行政制度も内地(本土)に準じて施政され、警察、郵便、学制はそのままです。

しかも、次高・タロコ国立公園は、内地から三年遅れただけで指定されました。
それだけ魅力的な景勝地だったからですが、この指定は総督府が尽力したから。

砂卡礑步道(Shakadang Trail)

<戦前の国立公園>
昭和9年の指定
 瀬戸内海、雲仙、霧島、大雪山、阿寒、日光、中部山岳、阿蘇
昭和11年の指定
 十和田、富士箱根、大山、

当時、指定された内地の国立公園と比較しても、劣らないと思ったのでしょう。
確かに、当時指定された国立公園は、日本を代表する観光地になっていますね。

総督府も、内地の指定公園を参考にしたはずでハードルは高かったと思います。
それでも、劣らないと胸を張って指定したのだから、先見の明はあったと思う。

まあ、実際に見物して、その条件を完璧に満たしていると個人的に思いました。
一方、他の切手図案になった清水断崖は、トルコブルーの海に落込んで美しい。

清水断崖

台湾の東部海岸は、地質構造上、まれに見る断層の海岸線が続いているのです。
特に、清水断崖は20キロ以上にわたり、千メーター近くの岩壁がそそり立つ。

一歩足を踏み外すと太平洋へ真っ逆さまだけど、ここに道路が切り開かれたの。
当時、台湾の東海岸は開発されておらず、多数の日本人が開拓に移住しました。

その際、交通網整備が必要になったわけで、当然、自動車道が計画されました。
ただ、この断崖は、道路開削の上で大きな障害になったのは紛れもありません。

第一次発行の切手を見ましたが、絶壁が素掘りのままに、切り開かれています。
まあ、ここまで総督府は経済開発をしたのだから、日本の印象はいいみたいよ。

というわけで、中華民国は、かなり遅れてタロコを国家公園に再指定しました。
戦後、日本が引き上げてから、四十年も経て指定し直されたといいますが、それまでは台湾経済の建て直し、国際政治における中共との覇権争いなどで、国立公園どころの話ではなかったのでしょうし、遅ればせながらでも指定されて観光開発になれば、地元の経済に貢献できているのだから、それはそれでOKだと思ったのでした。



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2018年12月24日月曜日

海の見えるゲレンデって言うのは、洋の東西を問わず、思わず出かけてみたくなる もんだね - スキー&スノーボード サッポロテイネ(北海道・札幌市)

平成7年1月2日滑走

海の望めるオリンピックアルペンスキー競技会場は、二度と現れないでしょう。
ここでは、男女の回転と大回転競技のコースが、この手稲山に設けられました。

もちろん長野オリンピックでなく、昭和45年の札幌オリンピックのことです。
思い出すのは、スペインの一発屋、オチョア選手が男子回転で金メダルでした。

国民的英雄になったのですが、後に世界選手権でも銅メダルも獲得しました。
W杯ではわずか一勝とはいえ、それなりに力量のあった選手だったと言えます。

妹のブランカも回転競技で銅メダルに輝きましたが、オチョア自身は長男です。
八人もの兄弟の中で、五人が冬季オリンピック選手に選ばれているのは凄い。

スペインで有名なスキー一家だったそうでスペインって雪が降るのでしょうか。
調べたんだけど、スキーリゾートのバルデスキで育ったとあり、雪は降るんだ。

他にはプエルト・デ・ナバセラーダがネットで紹介され、標高は二千メーター。
ヨーロッパで人気の自転車競技、ロードレースの峠超えコースになっています。

バルデスキのゲレンデだって

まあ、山岳地帯はそこそこ降雪が望めて、スキーはできるということなのです。
しかも、首都マドリードから、北へ百キロ足らずの距離でしか離れていません。

東京から三四時間かけてスキー場へ出かけるより、かなり近いといえますなあ。
しかも、北緯四十度で岩手県と同じ緯度にあり、雪が降るのは当たり前ですか。

ところで、手稲山の標高は千メーターちょっとなのに、オリンピックのコース。
ゴール地の標高は、五~六百メーターしかないので、山岳より山間なんだな。

比べれば、ヨーロッパのゲレンデは、標高も二千メーターを超えるのが当り前。
それで、フランスには遠くに海を望むゲレンデもあり、地中海に面しています。

その名は、グレオリエールリネージュ(Gréolières les Neiges)と呼ぶらしい。
風光明媚な海岸線のコートダジュールのニースから、北上する山岳地帯です。

”ski slopes with sea views”と英語でタイプしたら、上手くヒットしました。
つまり、海の見えるスキー場で、それを紹介するブログを発見できたのです。

ブログの写真は、はるか遠くを望む感じで、標高もかなり高いせいでしょう。
これに対し、手稲のゲレンデは標高も低いので、海岸線が間近に見えるんだ。

寄せては引いていく白波が海岸線に沿って見えますし、住宅街も分かります。
景色が美しいだけではなくて、札幌市内にある都市近郊型のゲレンデなのだ。

オリンピアゲレンデからの石狩湾

週末に気軽に出かけられるゲレンデでありながら。海が見えるなんて最高だね。
そんな風にも思いつつ、現在はオリンピアとハイランドが合体したスキー場だ。

それな、別々のゲレンデをゴンドラで結びつけて移動できるようになりました。
そして、お帰りコースとして初級者用レインボーコースで戻ることもできます。

というわけで、札幌っ子ならば、スキー学習でおなじみのゲレンデなのでした。
自分も、小学生の頃は、テイネとか、ばんけいスキー場で授業を受けた思い出がありますので、内地で働き出してから、久しぶりに帰省で札幌の実家に戻った時に、暇つぶしに滑りに出かけたのが、懐かしいテイネのゲレンデなのでして、ここが大回転オリンピックコースだったのかと、恐る恐る斜滑降で滑り降りる自分がいるのでした。



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2018年12月21日金曜日

歴代の郡上藩主が、 自領内の最高峰で白山遥拝をさせていた白尾山にちなんだゲレンデ - しらおスキー場(郡上市・岐阜県)


奥美濃のゲレンデまでに足を伸ばしたのは、四半世紀も以前ではるか昔のこと。
中央高速道で、長野県の松本から安房峠の長いトンネルから高山を抜けました。

東名・東海北陸道で行けば良かったんだけど、高速料金を惜しんだと思います。
まあ、若い頃は車の運転が好きで、体力に任せて長時間ドライブは気にしない。

それと、雪道運転にスリル感があり、ABSが実際に効いた時は喜んでいました。
そんな、ありえへんスキー行脚の旅路だったので、当然、日程は長くなります。

正月休みを使い切り、ほとんど毎日を滑っていたようなもので、楽しかったな。
それと、内地の文物が、道産子には非常に目新しいものだったのは間違いない。

まあ、北海道にスキー場は当然あるし、ないのは茅葺屋根、瓦屋根の社寺仏閣。
圃場整備の進まない、クネクネとしたあぜ道のある小さな田んぼとか珍しいの。

北海道は開拓によって切り開かれているので、田畑の形状は、みんな碁盤の目。
大規模農法に適したように整備されたので、農地自体はどこを切っても金太郎。

ところが、子々孫々、昔から人手で切り開かれた農地は自然の制約を受けます。
人力には効率の限界もあるでしょうし、形状がばらばらなのが人目を引きます。

それと、密集した集落の形態が、道路も狭くて、北海道とは全く違って来ます。
時代劇のセットにあるイメージに似ていて、一人で感慨にふけったりする始末。

そんな、風景や風物を雪景色の中に見かけて運転するのは、楽しいことでした。
こうして、自分なりに奥美濃を感じたことは、北海道の冬に酷似していたんだ。

つまり、冬の季節は厳しい地方だというのを、この訪問で感じてしまいました。
もちろん、スキー場も中京圏、関西圏のスキー人口に期待して規模も大きいな。

それでも、自治体や地場の企業が運営する中小規模のゲレンデも点在しました。
数もかなりあり、滑り残したゲレンデも多く、しらおスキー場もその一つなの。

PDFを見るにはこちらから
一日券が二千円と安かった!

それで、今年のお正月にやっと滑走できたのに、廃業が決まってしまいました。
この六月に、ひっそりとネットで告知されたみたいで、後になって知りました。

運営者も地元の地名をつかった有限会社六ノ里とあり、ローカルな雰囲気です。
民宿ペンションのオーナーなど、地元有志が出資して運営していたのでしょう。

食堂に入って食事をしても、昔懐かしいもてなしのゲレ食を堪能できたりして。
鄙びた雰囲気が好ましく、ゲレンデにも奥行きの深いレイアウトに変化がある。

特に、索道距離1キロと長い第7ペアリフトから、滑り降りるコースが面白い。
空いているからスピードを出しても安全で、ノンストップで一気に降りるんだ。

こりゃ、かっ飛び野郎にはたまらないと思いましたが、廃業かと嘆息しますわ。
スキー愛好者の絶対人口も減っているし、閉鎖・廃業は已む無いことなのかな。

というわけで、休止ならば再開はあるかもしれないが、廃業だと永久の別れだ。
こうして、自分にとっては、リフト券とパンフレットコレクションの貴重なセットを得たのを、これ幸いといたしまして、この廃業告知に前後して、”六ノ里地域づくり協議会”が立ち上げられていますので、これからの新しい地域おこしにエールを贈りたいと思ったのでした。



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