2018年10月30日火曜日

健さん主演の東映映画、網走番外地よりも、こっちのマンガの方が若いツーリストには受けるかもしれんな - 博物館 網走監獄(網走市・北海道)


今年の夏休みは、ピーナッツ煎餅を旅行土産で職場に持っていきました。
職場の皆さんへ、挨拶代わりと言うわけでもないけれど、いつもそうします。

それで、買った場所と言うのが、博物館になった網走監獄の土産物屋。
試食できたし、値段も手ごろで、このピーナツが意外においしかったんだ。

ただ、この包装紙に印刷された”ゴールデンカムイ”の漫画を知らなかった。
子供っぽいけど、良いかと思って買い求めたたが、これが話題になりました。

だって、職場の朝礼で行われるフリートーキングのネタになってしまったの。
このスピーチは、自己の表現能力を高めるために、順番が回ってきます。

勝手に何でも話して構わないのですが、若手の一人が好きな作品らしい。
持っていったお土産に事掛けて、この単行本を買ったてん末を語りました。

何でも、サービスで付く特製しおりが入っていなくて、問い合わせたとの事。
そのことで逡巡した経緯を面白おかしく話してくれましたが、世の中狭い。

自分の職場に、そんなマンガの大ファンがいるとは、思いもしませんでした。
ところで、このマンガのタイトルは、英語とアイヌ語が合体しておりますな。

ゴールデン=金、カムイ=神で、漢字で「黄金神威」と表記されています。
ヒロインが少数民族のアイヌの少女なのも独特ですが、舞台が網走監獄。

正に、北海道開拓期の砂金ブームに沸いた金塊争奪を描いた冒険劇。
そして、金塊のありかが、網走監獄の受刑者たちに彫られた刺青なのだ。


PDFはこちらから見てね

だからこそ、網走監獄が重要な舞台なので、お菓子が出来ても当然だ。
要するに、このコラボが、旅行から帰って判明したというオチが付きました。

ところで、おいらの年齢からだと、やくざ映画”網走番外地”の舞台なんだ。
この映画で主演した高倉健一をスターダムにのし上げた出世作でしたよ。

一方、道産子にとっっちゃ、荒くれたお尋ね者しかいないマイナスイメージ。
そんな土地に思われて腹立たしかったのですが、後年変化が起きました。

それは、健さん主演の”幸福の黄色いハンカチ”と言うハッピーエンド映画。
ただ、主人公の設定も、この刑務所から刑期を終えて出所するパターン。

設定からして網走番外地のほっこり幸せ偏みたいだけど、良しとしますか。
監督さんだって、寅さんシリーズの山田洋二さんがメガホンを取ったからな。


違いが出てこそ当たり前ですが、健さんが彼岸へ旅立ったのが四年前だ。
映画にしても、四十年前で、ロケ地の炭坑住宅街もなくなってしまった。

時間の移ろいを痛く感じますが、北海道の雄大な風景だけは悠久です。
というわけで、歴史遺産になった監獄は、博物館へと転生したのでした。

この”ゴールデンカムイ”の主人公、杉本佐一という名前は、作者の曽祖父の名前だそうでして、しかも屯田兵だったというし、作者自身も道産子ですから、開拓時代の網走監獄をめぐる冒険ロマンを漫画で描ききるのは、同じ道産子にとっても誇らしいのですが、漫画を読まないので作品を全く知らなかったのは、ちとマイナスかなと思ったのでした。




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2018年10月27日土曜日

スキーは、滑って楽しんで何ぼのものだから、それ以外に旅のオプションがあった方がいいじゃないのさ - 円空ふるさと館(岐阜県・郡上市美並町)

円空さんを訪ねるには、このパンフ

岐阜県のスキー場に行けば、円空さんの仏様に出会うチャンスが増えます。
もちろん、円空さんが生きた江戸時代、美濃・飛騨で活動したからなの。

しかも、諸国を行脚した地方は、東北北海道にまで広がりを見せました。
ずい分と、広範囲な活躍ですが、その仏像が北海道南部にあるのです。

その江戸時代、北海道は松前藩の領地でしたが、稲作が出来ません。
何万石と、治める領地の経済力をお米の収穫で把握した時代なのにな。

なので、米が獲れない代わりに、他の商品物でお米の価値に換算ました。
鮭、鰊、昆布など水産資源が主な商品で、それが一万石とされました。

この石高ですが、大名とみなすレベルの最低高なので、恣意的でしょう。
でも、貨幣価値に換算した額で見た資料では、それ以上だったようです。

江戸幕府は、米の取れ高を尺度とする農本主義で運営されていました。
それでも、貨幣経済が浸透し、北前舟による物流が藩に貢献しました。

実態以上に金持ちだったと見るべきですが、和人はせいぜい三万人です。
人口が少なすぎで、広大な北海道を治めるには大変だったと思います。

しかも、その和人は、殆どが気候の穏やかな道南地方に集中しました。
その証拠として、北海道の南部は杉の木が生育できる北限なのです。

そんな人口も少なく文物にも乏しい地域に、仏を彫る阿闍梨が現れる。
それが円空さんでして、地元の人たちも、敬って歓待するのは当たり前。

有珠善行寺の円空仏

そんな状況で仏を彫ったのだと思いますが、有珠善光寺にもありました。
場所は、有名な観光地、洞爺湖のそばで噴火した有珠山の山麓です。

道産子にとって、明治から開拓が始まる前の歴史は、無いに等しいのだ。
だから、内地の連綿と続く歴史と言う流れに、つい憧れを抱くものです。

大体、江戸時代以前に建立された寺院が、数えるほどしかないのですよ。
中でも、この有珠善光寺は有名で、小学校の郷土史でも教わりました。

このため、円空さんが彫った仏像が残されていたのは、記憶に残りました。
これが子供心にも、はるばる北海道まで旅して仏様を彫ったというお姿。

それ以降、内地で働くようになり、円空さんの実際の仏像を拝みたくなる。
拝観できるチャンスが増えたわけですし、スキー旅行に併せたらどうなのか。

そう思って、その仏様の多い地域、岐阜県へスキー行脚に出かけました。
ところが、問題がありまして、宝物殿のある寺院は、冬季休館になります。

雪の多い地域ですから、そんな寒い頃に、わざわざ訪れる人もおりません。
それを知らずに訪ねて悔やんだのが、千光寺の円空仏寺宝館なんだ。

確か、ほおの木平スキー場へ行った時と思いますが、松本から入りました。
高額な通行料で驚いたトンネル、安房峠道路を走り抜けた分けです。

だから、そこまで行ったのにという悔しさもありますが、休館は致し方ない。
いつか日を改めてということにして、その時が二三年前にめぐってきました。

江戸期の近世畸人伝にも紹介された

それは、奥美濃のスキー場を滑りに行ったときのことで、帰りがてらでした。
以前より、東海北陸自動車道があるので、この辺は便利になりました。

それで、時間に余裕もあり、高速を降りて円空ふるさと館に向かいました。
この美並の地区は、元々、円空さんが長きにわたって活動した場所です。

なので、木っ端仏の小さい仏様から、大振りな仏様まで鑑賞できるんだ。
隣は星宮神社があり、元は粥川寺ですが、円空さんとゆかりもあります。

こうして拝観できましたが、印象的な荒々しいなた彫りに感銘しましたな。
仏の教えを極めようとした求道の姿が、仏様に表れている気もしました。

というわけで、芸術性では、木喰さんよりも、はるかに高尚な気がしました。
タイトルにもありますが、年齢を重ねていくと楽しみにも巾が出てまいりますので、滑ること以外のオプションが大切で、ゲレ食がどうとか、地酒が同とか言うのは、至極、月並み平凡なことで、こういうジャンルに心がけるのも一興かと思うのでありました。



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2018年10月24日水曜日

中里介山が執筆した小説「大菩薩峠」に、ちゃんと木食上人の話が出てくるから、ご当地では尊いお坊さんだったと思うよ - 木喰明満上人(山梨県・身延町丸畑)

生まれ故郷は、身延町の丸畑という集落

木喰さんは、江戸の頃、千体以上もの仏像を彫り上げた遊行僧でした。
でも、仏像を彫った木喰上人は、全国各地にいて話がややこしくなります。

微笑仏と呼ばれる仏像は、明満の作なのですが、弟子に白道がいました。
このお坊さんも仏様を彫ったから、木食上人だけでは誰かが分かりません。

しかも、四国に木喰仏海上人が、佐渡には木食弾誓上人が出ています。
前者は木彫で、後者は石仏を彫ったとありますので、こんがらかりますね。

他にも仏様を彫った別人の木食さんもおり、時代的に重なる人もいます。
しかも、木喰明満は全国を行脚したので、場所すら重なってしまいます。

面白いのは、明満、白道、仏海の上人様が、心願を立て彫りだしました。
みな一千体を目標にしましたが、大願を果たしてもなお彫り続けました。

なので、いかに作風が違うとは言え、数が多いから見誤るかもしれない。
実は木食というのは、木食戒または穀断ちと言う修験道の行の一つです。

五穀断ちとも言って、米、麦、粟、豆、稗(ひえ)を食べないことでした。
要するに、穀物全般の総称とみなして、食べずに済ますことを意味します。

残る食べ物は、わらび、ぜんまい、茸や木の実のみなど、栄養価も乏しい。
それらを何とか食べて修行しつつ、煮炊きする行為の火食すら遠ざけます。

加えて、塩分も取らないので、その戒は厳しい苦行で断食そのものです。
だからこそ、厳しい修行に耐えた尊称となって、庶民の信仰を集めました。

   
天変地異があれば、天の怒りに触れたと真剣に思われていた時代です。
それを鎮めるために民衆は、上人の法力を信じて加持祈祷を頼みました。

流行病に罹れば薬も無く、日照りに会えば雨乞いと、上人様だけが頼り。
そんな状況で、寺も無いような集落に逗留した坊さんが仏像を彫るんだ。

ならばと、村人達は協力してお堂をこさえて、仏様を安置したのでしょう。
そんな木食上人の活躍だったからこそ、仏様が未だに祀られているのです。

さて、三度も改名した木喰明満上人さんですから、正しく呼ぶ方が無難。
血脈を授かり、木喰五行と称した頃は、伊勢原の浄発願寺におりました。

二十二歳で出家したのも大山不動のかの地なので、縁があるのでしょう。
それから、廻国修行を発願するに至ったのは、五十代半ばとかなり遅い。

自身が残した伝記でそうなっておりますが、先立つ路銀も必要になります。
それでも、近隣在郷の農民町民から貧富を問わず、お布施がありました。

その報謝は、およそ十五両に達していたようで、当時の価値観では大金。
江戸近郊の農民が年貢を払えば、残りがその額になり一年分の年収だ。

その奉加帳も残されており、上人として慕われていたのは事実でしょうな。
しかも、銭で報謝できない人々は、わらじや脚絆の旅の品物を贈りました。

というわけで、木喰明満さんは五千里になる果てない旅を始めたのでした。
自分的には、彫られた仏像そのもの鑑賞より、江戸時代、修行僧が諸国を比較的自由にめぐることの出来た、江戸幕府の体制そのものに興味が移ったりしまして、日本人の旅好きは、きっとこの江戸の頃から感化されたものであろうなと思うのでした。


おまけ:
 引用した中里介山の「大菩薩峠」は、青空文庫を使うと無料で閲読できるよ!
   「伊吹の巻」は、こちらをクリック
   「恐山の巻」は、こちらをクリック



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2018年10月21日日曜日

ほっこり木喰さんの歌、わが心 にごせばにごる すめばすむ  すむもにごるも 心なりけり - 木喰明満上人の仏像(身延町なかとみ現代工芸美術館・山梨県)

身延町なかとみ現代工芸美術館
  
  まるまると 
  まるめまるめよ 
  我が心 
  まん丸丸く
  丸くまん丸
  
小泉首相が在任中に、メルマガの中で発信して、注目を集めた和歌なのです。
当時、抵抗勢力を必要以上に攻撃するとの非難に対する答えで紹介しました。

当時、郵政の民営化に対して、私は丸く収めたいのだよと言ったのかもなあ。
私の内閣の方針に反対する勢力、これは全て抵抗勢力であります。”と国会答弁。

小泉元首相は、こういう引用が上手だった記憶もあり、他の引用もありましたね。

内閣が発足して所信表明演説の結びでも、米百俵の故事を引き合いにしました。

これは、救援の米を、明日の人づくりのために学校設立資金に費やしたんだ。

戊辰戦争に敗れて、明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩での逸話です。

それで、この和歌は、江戸後期の仏教行者だった木喰明満上人が歌いました。
そして、全国津々浦々に遺品となった”木喰仏”(もくじきぶつ)を残します。

その行脚は生涯で二万キロに及んだといい、漂泊の旅に明け暮れた遊行僧。

この人より、一世紀ほど前に活動した円空とよく比較されたりもしますね。


展示が終了してしまったのが残念
もらったクリアポケットファイル

まあ、円空さんの荒削りで野性的な作風に比べれば、造作は対照的なんだ。
木喰さんが彫ると微笑を浮かべた温和なものが多いから、微笑仏と呼ばれます。

どちらも一木造の仏像を刻んで奉納したのに、こうも作風が違うと興味がある。

すでに円空の実物は、生まれ故郷の岐阜県まで出かけて見学して来ました。

一気呵成に彫り上げた、すこし荒々しい仏さんですが、微笑みも感じます。
柔和というよりは、何かしら神秘的なアルカイックスマイルが魅力的です。

ノミを選ぶ余裕もなかったのでしょうか、目鼻口が直線的になっています。
逆に、それがその微笑を生んだと思いますが、この木喰さんは少し違うな。

個人的な感想ですけど、少し劇画的な漫画チックさがあって、人間くさい。
円空さんが仏様の慈悲につながる笑みとしたら、木喰さんは寄り添う笑み。

それは、天変地異の驚異におののき、うろたえる農民に付き添うかのよう。
共に悲しみも喜びも分かち合うために、身近に存在した仏さまだったのか。

  
というわけで、生誕三百年の展示会で一堂に集まった仏様を鑑賞しました。
仏さまを拝みながら、双六仕立てのクイズに答えて館内を回りますと、展示会デザインのクリアポケットファイルまでもらえたりしましたが、円空仏との印象の違いが明確に感じられて、江戸期の遊行僧による仏像彫刻について蘊蓄を深めることができたのでした。

中身はこちらからご覧ください。


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2018年10月18日木曜日

南アルプスをはさんだ東と西の自治体は、地理オタクなら聖地巡礼のように訪ねたくなるもんだ - 見神の滝と糸魚川・新倉断層(早川町・山梨県)

”けんじんのたき”と読むのですな

雨畑の集落を過ぎて、ほどなく運転して行くと、この見神の滝が見えてきます。
町を貫いて流れる早川に合流する雨畑川にある滝で、意外な見ごたえなんだ。

滝が二段になっており落差は数十メーターほどですが、少し水量がか細いかな。
言い伝えでは、二段目の滝壺に金が隠されているので、若者が挑戦したらしい。

ただ、断崖絶壁のために全て失敗したというのですが、この滝壺が印象的です。
一旦、滝壺に流れ落ちてぶつかった水流が、溢れながら落下するのが面白い。

こういった変化のある滝は見とれますが、それより下流のダム湖が摩訶不思議。
せき止められたダム湖は、溢れん限りに土砂が流入して貯水が殆どありません。

途中、湖に注ぎ込む沢に橋が掛かっていましたが、橋桁まで土石が押寄せます。
砂防ダムすら無い沢で、自然のまま、任せるままに土砂が流れ込んでいたんだ。

もっとも、このダムは灌漑用ではなくて発電用で、堆砂は構わないんだとか。
それでも、土砂が勝手放題に堆積した風景は荒涼として不気味な気もしました。

まあ、町全体の河川流域は急峻な地形で、水害対策で砂防事業の対象です。
沢筋の谷間を車で走れば、崩落の激しい箇所も見かけたり、断層が多いのかな。

   
そう言えば、早川町の川沿いに糸魚川-静岡構造線の断層帯が通り抜けます。
しかも、新倉の内河内川左岸は、国指定天然記念物の逆断層が露出するの。

正直に言いますが、説明看板と駐車場があったとしても一見では分かりません。
これを見たさに地質マニアがやって来ますが、至高のオタクポイントでしょう。

それでも、高尚なネーミングのジオパークで教育や観光に活用する目的はある。
地理的定義だから地域に根ざした町おこしプログラムで、この構造線もそうだ。

糸魚川のエリアで登録されていますが、残念、早川町は設定されておりません。
ならば農鳥岳の山麓だから、南アルプスのジオパークが該当するかと思います。

ところが、これにも当てはまらず、折角、天然記念物に指定されたのに悔しい。
本来、南アルプスは大体が中央構造線の大断層に沿って出来上がっています。

つまり、異なる構造線なので、早川町は、ちょっと逸れてしまっているのね。
この南アルプスは多くの自治体に囲まれますが、似たような露頭も存在します。

村立だけど地理マニア垂涎の博物館

早川町の河川と同じく、流れに沿って中央構造線が走っているということです。
しかも、大鹿村は、高峰、塩見岳などの登山の出発点で、これも早川町と同じ。

北川と安康の露頭とで、日本の地質百選・国の天然記念物にもなっていますよ。
更に言えば、どちらもしょっぱい塩化物泉の温泉が湧き出しているのが瓜二つ。

太古の昔、海底が隆起した時に、海水が地層に閉じ込められたからでしょうな。
それが、今の時代になって湧き出して、体が温まる名湯になっているのです。

というわけで、農鳥岳に至る登山の縦走は、ここ大鹿村から出発したのでした。
塩川小屋までバスで行き、ここから日本で最も高い三伏峠にたどり着いて、塩見岳、農鳥岳、間ノ岳、北岳と連続で登頂したのが懐かしい思い出でもあり、今回の早川町の旅で、それを思い出させてくれたことが、楽しい旅になったのでした。



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2018年10月15日月曜日

食事処”こんぼうす”でほうとうを食べたけど、店の名前は食いしん坊のことなんだってさ - 南アルプス山岳写真館・白旗史朗記念館


鑑賞者が、自分で館内照明を点けて入場しなければならないので、驚きました。
当然、退出する際も照明を消さねばならず、それほどお客さんが少ないのかな。

まあ、山梨県の早川町は、最寄り町から一本道で他の自治体へ抜けられません。
つまり、袋小路のどん詰まり奈良田の集落なので、バスなら一時間以上の道程。

舗装道路でも谷あいに沿ってクネクネ運転せねばならず、それだけ交通が不便。
なので気安く訪れる分けにもいかないのでしょうが、それでも温泉旅館がある。

入館券は、隣にある古民家のカフェ”鍵屋”で買い求めましてて、六百円也です。
山岳写真家で高名な白幡史郎さんの作品を展示していますが、なぜか早川町。

ただ、南アルプス白峯山脈に属する農鳥岳を直接に登るには、ここが出発点だ。
この奈良田から歩き出し、千メーター以上を稼いで、大門沢小屋で一泊します。

それから、頂上まで一気に登り詰めますが、自分は別ルートから登頂しました。
熊の平小屋からトラバースして、濃鳥小屋で幕営して西農鳥岳経由でアタック。


その後、日本第二第三の高峰、間ノ岳と北岳を縦走したから、奈良田は未知。
そんな登山だから、このルートを知らず、今回は雰囲気だけを味わいました。

加えて、ここから北岳登山のベース、広河原まで道路が通じているのも事実。
ただ、マイカー規制の県道だから、別ルートのバス乗車で行くしかないんだ。

だけど、白幡史郎さんは南アルプスの写真を多く撮影しており、立地は当然か。
何れにせよ、南アルプス山麓の町に、その山塊を撮影した写真家の取り合わせ。

しかし、これほど高名な写真家の展示館なのに照明を自分で点けるのが寂しい。
写真を鑑賞しましたが、美しい海外の山岳写真が多いのに南アルプスが少ない。

やっぱりお膝元なんだから、南アルプスの雄大な写真に入れ替えて欲しいなあ。
そんなことを思いつつ、展示館を後にして、共通券の郷土資料館も訪ねました。

パンフの内容はこちらから

それで、こちらでも入館者が館内の照明を点けて見学するのが、ルールでした。
平坦な耕作地が見いだせない山間の集落ゆえに、焼畑農耕に関する説明がある。

この焼き畑農法は、岩波新書のある一冊を読んで、内容は多少知っていました。
稲作の起源を探る 」というタイトルで、焼畑で陸稲を栽培していたようです。

でも、南国の宮崎県で行われていた焼き畑の記録なので、北にある山梨は無理。
しかも、早川町は標高が高くて、この資料館ではヒエアワの栽培とありました。

本の説明にもありましたが、焼畑は自給自足が目的で食糧を調達することです。
このため、収穫の少ない焼畑だと、換金作物にするには経済的に見合いません。

山林の傾斜地は人手に頼るしかないし、機械化やら合理化など論外な話かもね。
自然の生態系を巧みに利用した合理的な農法だけど、衰退は避けられなかった。

というわけで、展示された焼畑農耕用具は、国指定の重要有形民俗文化財です。
何れにしても、今回の旅行は、それなりに自分に蘊蓄を深める旅になった分けでありまして、これから何時か、農取岳をアタックするときは、この奈良田ルートからチャンレンジしてみたいと、思ったのでした。



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