2018年10月24日水曜日

中里介山が執筆した小説「大菩薩峠」に、ちゃんと木食上人の話が出てくるから、ご当地では尊いお坊さんだったと思うよ - 木喰明満上人(山梨県・身延町丸畑)

生まれ故郷は、身延町の丸畑という集落

木喰さんは、江戸の頃、千体以上もの仏像を彫り上げた遊行僧でした。
でも、仏像を彫った木喰上人は、全国各地にいて話がややこしくなります。

微笑仏と呼ばれる仏像は、明満の作なのですが、弟子に白道がいました。
このお坊さんも仏様を彫ったから、木食上人だけでは誰かが分かりません。

しかも、四国に木喰仏海上人が、佐渡には木食弾誓上人が出ています。
前者は木彫で、後者は石仏を彫ったとありますので、こんがらかりますね。

他にも仏様を彫った別人の木食さんもおり、時代的に重なる人もいます。
しかも、木喰明満は全国を行脚したので、場所すら重なってしまいます。

面白いのは、明満、白道、仏海の上人様が、心願を立て彫りだしました。
みな一千体を目標にしましたが、大願を果たしてもなお彫り続けました。

なので、いかに作風が違うとは言え、数が多いから見誤るかもしれない。
実は木食というのは、木食戒または穀断ちと言う修験道の行の一つです。

五穀断ちとも言って、米、麦、粟、豆、稗(ひえ)を食べないことでした。
要するに、穀物全般の総称とみなして、食べずに済ますことを意味します。

残る食べ物は、わらび、ぜんまい、茸や木の実のみなど、栄養価も乏しい。
それらを何とか食べて修行しつつ、煮炊きする行為の火食すら遠ざけます。

加えて、塩分も取らないので、その戒は厳しい苦行で断食そのものです。
だからこそ、厳しい修行に耐えた尊称となって、庶民の信仰を集めました。

   
天変地異があれば、天の怒りに触れたと真剣に思われていた時代です。
それを鎮めるために民衆は、上人の法力を信じて加持祈祷を頼みました。

流行病に罹れば薬も無く、日照りに会えば雨乞いと、上人様だけが頼り。
そんな状況で、寺も無いような集落に逗留した坊さんが仏像を彫るんだ。

ならばと、村人達は協力してお堂をこさえて、仏様を安置したのでしょう。
そんな木食上人の活躍だったからこそ、仏様が未だに祀られているのです。

さて、三度も改名した木喰明満上人さんですから、正しく呼ぶ方が無難。
血脈を授かり、木喰五行と称した頃は、伊勢原の浄発願寺におりました。

二十二歳で出家したのも大山不動のかの地なので、縁があるのでしょう。
それから、廻国修行を発願するに至ったのは、五十代半ばとかなり遅い。

自身が残した伝記でそうなっておりますが、先立つ路銀も必要になります。
それでも、近隣在郷の農民町民から貧富を問わず、お布施がありました。

その報謝は、およそ十五両に達していたようで、当時の価値観では大金。
江戸近郊の農民が年貢を払えば、残りがその額になり一年分の年収だ。

その奉加帳も残されており、上人として慕われていたのは事実でしょうな。
しかも、銭で報謝できない人々は、わらじや脚絆の旅の品物を贈りました。

というわけで、木喰明満さんは五千里になる果てない旅を始めたのでした。
自分的には、彫られた仏像そのもの鑑賞より、江戸時代、修行僧が諸国を比較的自由にめぐることの出来た、江戸幕府の体制そのものに興味が移ったりしまして、日本人の旅好きは、きっとこの江戸の頃から感化されたものであろうなと思うのでした。


おまけ:
 引用した中里介山の「大菩薩峠」は、青空文庫を使うと無料で閲読できるよ!
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