2017年2月27日月曜日

法事の目的でお寺の駐車場に停めたっていう印象がぬぐえなかったんだな - 喜多方市営五分一スキー場(福島県・喜多方市)

秋田県の魁新報より
見慣れないゲレンデも多い!

このスキー場は、平成13年の閉鎖まで、ゲレンデガイドブックと無縁の存在でした。
簡単な記述はあったらしいのですが、コースマップも所在も紹介されない謎の存在。

なのに、なぜ見知ったのかと言うと、それは、新聞のスキー場積雪情報欄からです。
当時、仙台に住んでいたので、地元紙である河北新報には目を通していました。

この新聞、全国紙に比べて地元の話題がメインで、お買物のチラシも多く役立つ。
このため、積雪情報欄だって、福島など隣県の小規模なゲレンデも紹介しました。

その中に、このゲレンデが含まれていたのですが、東京から移り住んで初耳です。
これ以外にも、会津坂下、雷神山など、地元民のみぞ知るスキー場もありました。

確かに、猪苗代や猫魔など、首都圏で知られているゲレンデとは、好対照なのだ。
一方、ゲレンデガイドの編集者から無視されたのには、理由もあるはずでしょう。

多分、掲載してもらうのに出稿料を払わなかったとか、広告を出さずにいたのかも。
ゲレンデもリフト一本で小規模だし、目的は、近隣住民の冬場のレクリエーション。

しかも、自治体の運営で営利目的ではありませんから、宣伝する気もありません。
だから、新聞の情報欄に載る程度だったのでしょうが、この三ヶ所とも行きました。

平成6年2月11日滑走

ただ、二ヶ所は運よく滑走できましたが、雷神山だけシーズン初めで雪が全くない。
年末の正月休暇旅行だったせいで、未だ雪が足りず、次回の偵察に終わりました。

まあ、その後、閉鎖されてしまって滑走できなかったのは、実に痛恨の極みなのだ。
廃墟検索地図と言うサイトでも紹介されておりますが、現在は案内板だけです。

当時の高郷村営スキー場ですが、リフトは撤去され、ゲレンデも植樹されました。
痕跡を見つけるのも難しくなったようで、この五分一にしても、似たり寄ったりです。

ただ、冬の厳しさが和らぐ頃、ゲレンデ跡を登りながら高森山を登る人もいますな。
晴れていれば、頂上から景色はきれいだとありましたので、会津盆地なのでしょう。

そんな小高い丘陵に設けられたゲレンデのようですが、五分一の地名が面白い。
調べれば諸説があるようですが、意味的には六部と称する旅の僧を指すようです。

確かに、スキー場の駐車場が、大用寺という寺院に隣接するので、そう思えます。
何となく、スキーをするのに、お寺の駐車場に車を停めたような印象もありました。

と言うわけで、リフト一本だけで地元民が御用達のゲレンデを、楽しく滑りましたな。
二月に入ってからの滑走だったので積雪も十分にありましたし、初中級者向けにしつらえたバーンを、ちんたらちんたらと滑っていた分けですが、他方、自治体が財政難になれば、こんなに閑散とした施設は閉鎖されてしまうんじゃないかと思う気配を、当時ですら感じられまして、やはりそうなってしまったのはむべなるかなとも思ったのでした。


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2017年2月24日金曜日

最大積雪量が5メーター越えなんて、ありきたりだから、シーズンのなが~いゲレンデ - 谷川岳天神平スキー場(その一・群馬県・みなかみ町)

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背景の谷川岳がサイコー

この天神平も、今シーズンは、積雪が4メーター60センチに達しておりました。
二月の中旬で、これぐらいの積雪に達していれば、平年並みだと思います。

だって、今シーズンは、出だしが暖冬の気配で少し気を揉んでおりました。
ところが、一月末の寒波の波状攻撃がすさまじく、一転、厳しい冬に大変身。

自分の記憶ですと、暖冬の年は二月になっても積雪が3メーターに達しません。
一方、一月初めの時点で、すでに五メーターを越えてしまった年もありました。

それは、平成18年のことで、ゲレンデ整備に三日間掛けて休業するほどです。
あまりのドカ雪だったのか、リフトが雪に埋もれてしまい、除雪が間に合わない。

正月の休暇明けで、スキー客もまばらになる頃合から、やむなく休業したのか。
まあ、積雪が5mを超えたら、すぐさま雪崩の危険があるのじゃないでしょうか。

営業を続けたら、雪崩に巻き込まれて事故の発生する危険も高くなります。
元来、天神平は雪が多いのですが、これほど早く達するのは記憶に少ない。

平成5年12月26日滑走

なぜなら一月初めだからで、二月になれば5メーターに届くのは、例年のお話。
でも、自分的に天神平の思い出は、初滑りとかスキー納めの春スキーです。

フルシーズンになれば、他のゲレンデもコンデションが安定して、目移りします。
わざわざ天神平へ滑りに出かけるのは、よほどの奇特な人物かもしれません。

だって、天神平の駐車場につながるあの坂は、4WDでもきついと思いますな。
しかも、ロープウェイ山頂駅の標高が千三百メーターもあるので、寒いでしょ。

加えて、リフトに乗り直して到達した上部からは、バーンの滑走距離が短い。
標高差が二百メーター足らずしかないので、繰り返しでは飽きても来ます。

他方、ロープウェイ出発駅まで降りられる”田沢尻コース”もあるにはあります。
ところが、コースの終点から駅までは、スキーを担いで歩かなくてはなりません。

谷川岳天神平スキー場、峠裏~田尻沢をノンストップ滑走!

このユーチューブの動画を見る限りそうですが、自分は未だ滑っておりません。
だって、十二月の初滑りと五月連休しか、滑りに出かけたことが無いんだもの。

その時分には、コースはすでに閉鎖されているし、あえて厳冬に行く気もない。
というわけで、春スキーのピーカン照りの中、残雪の山容を眺めるのが最高。

そんな天神平は、日本百名山の谷川岳があるからこそで、どちらかというと、観光シーズンは、スキーシーズンの冬より、残雪スキーの春から紅葉の秋に掛けてのシーズンがメインな分けでして、パンフレットを見ても冠雪を抱く三国山脈の眺望こそが、このゲレンデを惹きつけてやまない所以なのだろうと思うのでした。


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2017年2月21日火曜日

リフトもロープトゥーもないけど、田舎のゲレンデってこんな感じかもしれない - 中小屋温泉 スキー場(北海道・当別町)

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何時訪問したのか覚えておりません

このスキー場は、温泉に併設された町営スキー場ということになっていました。
場所は、札幌近郊の当別町ですが、最寄駅は学園都市線の本中小屋駅です。

実は、自分は札幌っ子で、大学を卒業して就職するまで札幌におりました。
土地感もありますし、この当別町からは高校の同級生が多数通学していました。

確か、同級生で大学も一緒に合格した山上君が、当別町から通学していました。
他には、国立の工業大学に行ったのに実家の農業を継いだ、彦治君もいます。

なので、学友がこの町から通っていたので、この町自体には親しみがありました。
一方、この町の開拓の歴史は古くて、明治四年までさかのぼることができます。

伊達藩の支藩だった岩出山の領主伊達邦直が率いて、移住して来たのが嚆矢。
このため、この移住による町の発展をたたえ、伊達記念館も建設されております。

伊達邸別館写真
グーグル画像検索より

自分も夏休みに訪れていますが、それまでそんな歴史があるとは知りませんでした。
次に、実際にこの温泉へ訪ね始めたのは、内地へ就職してから帰省中のことです。

夏休みに日帰りで漬かりに行ってみたし、冬の寒い時季に宿泊したこともあります。
JRの駅からテクテク歩くと15分もあればたどり着けるのですが、冬は少し厳しい。

まっすぐな道をテクテク歩くのですが、吹雪けば、風をさえぎるものもありません。
吹きさらしの中を歩くのはつらいもので、ここは自動車のお出かけをお勧めしたい。

旅館の前には砂利を引いた広い駐車場もあるし、冬になればもちろんでしょう。
それで、温泉にゆったり入りますと、アルカリ性のお湯で肌がすべすべになります。

源泉は冷たくて沸かしているようですが、泉質が良いせいで親しまれてきました。
明治三十七年の開湯で百年以上の歴史もあり、道内でも古い温泉の一つです。

周辺は農家も多く、湯治も兼ねた行楽で、近隣の住民も訪れてきたのでしょう。
一方、この温泉の南側には少し小高い丘があり、切り開かれた斜面が望めます。

どうも町営スキー場のゲレンデらしく、冒頭のパンフレットでも紹介されていました。
最終ページには、スキー競技会が開かれたような雰囲気の写真も載っております。

そこで、目を凝らして見たのですが、リフトやロープトゥーの索道が見当たりません。
となれば、ここはスキー板を担いでゲレンデを登らねばならなかったということか。

自分も冬場に訪れましたが、宿泊が目的のため、ゲレンデは横目で通り過ぎました。
ただ、ゲレンデらしき斜面は確認できたのに、滑っているような人気がありません。

HPはこちらから

なので、索道も見当たらないゲレンデだから、余り使われていないと感じました。
そこで、確認する意味もあったので、ネットでこの温泉とスキー場を探してみます。

すると、わずかなヒットでも、スキー場の写真をアップしたサイトが見つかりました。
説明では、コースには無数の滑走跡があっても、既に廃止されていたとあります。

加えて、山頂に向かってリフトの支柱も見受けられ、後年、掛けられたのでしょうか。
リフトはもう稼動することはないでしょうが、昔のように板を担いで登るだけです。

というわけで、このゲレンデはリフトが廃止されましたが、昔に戻っただけなのです。
後は、バックカントリー気分で、のんびり山頂まで登っては、ちんたら降りるというスキーの原点に立ち返ったような運動をするのもいいではないかと、思うのでした。


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2017年2月18日土曜日

東日本のゲレンデしか書かない、局地ブロガーどもに、西日本の情報を教えたるわ ー 恐羅漢/雌鹿平温泉スキー場(広島県)

スキー場のパンフをゲットしてきたぜ

福岡とか久留米ナンバーの車を見たら、九州に近づいたのだと思いました。
御当地は広島県なので、お隣りの山口ナンバーなら当たり前かもしれません。

しかも、本州四国架橋を経由して愛媛から往来があっても、普通のことです。
これに比べて、九州地方の他県ナンバーを駐車場で見かけるので驚きました。

ここは、雌鹿平温泉スキー場で、中国自動車道の吉和インターに直結します。
降りたら10分も掛からずに、ゲレンデのパーキングに到着する便利さです。

広島県でもっとも西側にあるスキー場なので、九州に近いといえばそうかな。
車でニ三時間の圏内にあるし、ゲレンデ探しに苦労する九州人には救世主。

それで、17日は冬だというのに気温が上がって大雨になってしまいました。
宿泊先も、標高が八百メーターもあるというのに、夜中から降り出す始末です。

テレビで気性予報を見ても、その日の午後にようやく降り止むのが恨めしい。
ただ、雲の流れが予想以上に早かったので、ひょっとして早く止むかもしれない。

そんな甘い期待を膨らませて、出かけてみたのは恐羅漢スキー場なのでした。
だって、雨が降る中、何か観光しようにも、季節外れで見るべきものがない。

三段峡は渓谷美で有名な景勝地が目と鼻の先ですが、冬場は閉ざされます。
だからスキー場もオープンできるのですが、アクセスも舗装路とは言え厳しい。

上り下りの激しい大規模林道を経由してたどり着きましたが、雨はひどいまま。
ずぶ濡れになってまで滑る気もないし、ここはゲレンデの偵察に留めました。

後は来た道を引き返し、時間つぶしで安芸太田町の道の駅に寄って、昼食。
その向かいには、屋台風の店が立ち並んでおり、若者もたむろしております。

天気があまりに悪くて、滑るのをあきらめて時間でも潰しているのじゃないか。
そんなことを上さんと喋りつつ、こちらも同じ店で天むすをお買い上げですわ。

というわけで、車中でほおばりつつ、雨脚の衰えを見て雌鹿平へ移動しました。
滑走はどうだったのかと言うと、やはり途中で土砂降りに急変するなど、天候は散々な目にあったせよ、以外に楽しめたのが本音で、ゲレンデの本格的な紹介は後に譲るとしても、西日本のゲレンデは意外に堪能できると思ったのが、偽らざる感想なのでした。




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2017年2月15日水曜日

江戸時代、只見の住人は越後(新潟)の人々と、最も交流があったって聞いて驚いたわ - 只見スキー場(福島県只見町)

平成5年12月30日滑走

奥会津の隅っことも言うべき、只見町は正月と5月の休暇に、二度、訪ねました。
車の運転ならルートは幾つかありますが、高速道の直接アクセスはありません。

スキーで滑りに来た時は、磐越道を降りて、只見川沿いの下道を走っています。
一方、五月連休の旅行では、関越道の小出ICから国道252号線に入りました。

JR只見線も併走しており、名前の通り、只見町に至っている未電化の路線です。
ディーゼル一両だけの編成で、気動車が走り去るのを見ながら、車を走らせます。

小出駅から一時間半ほどの鉄道旅になりますが、車も意外に時間が掛かりました。
これも、六十里越と名づけられた往還をなぞった国道で、かなりの標高差です。

トップの地点では残雪もちらほら見られるほどで、豪雪地帯ゆえかと思いました。
人家も全く無くなり、プラットホームだけの停車場を見かけたり、正に秘境です。

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六十里越のルートに沿っています

でも、江戸時代には雪に閉ざされない限り、越後から往来が錯綜したようです。
塩、小間物、塩鮭、ニシン等、人々に欠かせない食料・用品が運び込まれました。

これに代って、只見からは麻・生糸・ゼンマイが送り出された重要な交易路です。
塩の道になぞらえるのに格好でしょうが、実は同様な別ルートも存在しました。

八十里越と言いまして、現在の三条市に至るルートで、こちらも険しい山道です。
その名の由来も、険しさゆえに一里が十里に感じられる程、しんどいからだそう。

だから、実際にはどちらもはるかに短い距離ですが、落石の危険性もかなり高い。
このため、急峻かつ長大な山道の労苦をかみしめて、言葉で表現したのでしょう。

鉄道に加えて、国道の開通も悲願なのは間違いなく、先ず252号が通じました。
ところが、八十里越はというと、険しい核心部分が未だに開通できない物凄さ。

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番号は289号線で、地図上ではルートが点線なので、点線国道とも呼ばれます。
それで、これがいじめっ子扱いで、かつては別の箇所でも登山道がルートでした。

福島県白河市から下郷町へ抜ける際、甲子峠を超えるのに、歩きの山岳路です。
つまり、峠越えの登山道が国道指定を受けて、国道標識付きの登山国道なのだ。

点線国道より通行できるからマシでしょうが、生活のために使う人もおりません。
ただ、 数年ほど前にトンネルが縦貫し、この甲子道路は実用道路に変わりました。

だから、この点線区間を残すのみとなったのですが、八十里越は気候が厳しい。
建設作業は、雪の無い五月から十一月までに限られるので遅遅として進みません。

なので、その代わりに旧道の山道を越えようとチャレンジする猛者がでる始末です。
ネットで簡単に見つかりますが、きついらしくて物好き以外は、試さないでしょう。

というわけで、開通まで後十年を待ち望むとして、もうひとつ只見はダムの町です。
田子倉ダムによって生み出された人造湖には、季節ともなれば観光遊覧船も運航されるなど、紅葉の季節には絶景の観光地になるのですが、他方、戦後の只見川電源開発計画で作られた田子倉発電所は、未だに国内第二位39万キロワットもの水力発電量を誇るなど、ダムお宅にとっても見逃せないロケーションに違いないのでした。


おまけ:
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ゲレンデ貸切もできるみたい


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2017年2月12日日曜日

伊豆急に乗りたいのは鉄女でしょうが、ならんだの里は仏女の聖地になりつつあると思うよ - 伊豆ならんだの里・川津平安の仏像展示館(静岡県・河津町)

河津桜も、もう開花してるはずだな

二月上旬から咲き始めるという河津桜は、春の訪れを先駆けてくれます。
南伊豆は、春の訪れが一足早いからでもありますが、梅の開花も同じ頃です。

可憐な花弁も濃い目のピンクで、パッと咲いて散る潔い染井吉野とは違います。
早咲きですが、例年二月上旬から開花し始めて、一ヶ月で満開になります。

このため、満開が連綿と続く特徴があり、長い間、花見客を楽しませてくれます。
それゆえ、年間二百万人近くもの花見客が、この地を訪れるようになりました。

ただ、この時期を過ぎれば、河津はいつも通りのひなびた温泉町に戻ります。
まあ、山間に入れば河津七滝や八丁池など、観光地があることにはあります。

特に、川端康成の小説、伊豆の踊り子で有名な旧天城トンネルもそうです。
ですが、それなりで、この桜ほど、観光客を惹きつける魅力はあるのかどうか。

確かに、温泉ファン、桜マニア、文学愛好家には、なじみの観光地でしょうね。
そして、今新たに、仏女の詣でる聖地になろうとしているのが、この河津なんだ。

仏女っていうのは、主に仏像など仏教的な事物を好む女性を指す言葉です。
宗教的な意味合いを持つものではなく、純粋に仏像の鑑賞を楽しむスタイル。

加えて、座禅や説法で癒しを求めたりする、今や働く女性のトレンドなのです。
一方、歴女、鉄女、という言葉もメディアで使われて、お馴染みになりました。

それで、この河津には、荒れ果てたお堂に古い仏像がひっそりと眠っておりました。
それは南禅寺と言い、桜の咲く川土手を渡り、谷津という山奥に分け入ります。

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地区の住民が代々守ってきたお堂ですが、資力に乏しく荒れるに任せました。
しかも、山津波で呑み込まれた大寺院の仏像を掘り起こしては、移しました。

だから、朽ちてしまった仏像群は、お堂にぎゅうぎゅう詰めになっていたのです。
でも、ご本尊だけは価値が認められ、戦前は帝室博物館で展示されています。

なんと国宝の扱いでしたが、戦後は審査が厳しくて重文に格下げされてしまう。
しかも、この地区で保管・維持するのに必要な金銭的な余裕すら、ありません。

こうして、地区の人々は泣く泣く、指定を辞退してしまったという逸話が残ります。
現在は、県指定の有形文化財に留まっていますが、九世紀前半の古い仏像。

平安期のカヤ材による一木造りは、東日本では滅多に見られるものでもない。
朽ち果てることもなく、幾星霜を人々の信仰心で守られてきた薬師如来です。

それを見守るかのような、いっそう落剥の激しい仏像群は、何か哀れを誘います。
この仏像展示館にご動座され、千年以上の時を経て、仏様もホッとしたでしょう。

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しかも、平安時代後期に作られた”おびんずる様”像は、触ることもできました。
何でも、自分の痛い場所を、像に触ると霊験で、痛みが取れるというご霊験。

そんなことを、この展示館の管理人さんから説明を受け、自分も触れてみました。
本当は、高僧の仏像だったらしいのですが、時の移ろいで由緒は分からずじまい。

その内、庶民は、病除けの加護があると期待し、その名をなぞらえてしまいました。
多くの信者が触れた通り、かしこと照り光るをの見ると、素朴な信仰心を感じます。

一方、この辺りは、二三の寺院の興亡を経た中、山岳修験道も盛んなのでした。
行者さんの子孫に関わる方が、お寺の後方にあるお住まいになっておられるとか。

少なくとも数世紀という時間軸で、子々孫々、お住まいなのに圧倒されました。
というわけで、この仏像展示館は、のんびりハイキング気分で歩いて訪ねてみたい。

河津桜の咲く季節も良し、深い森に分け入るような新緑の季節でも良し、季節に応じながら仏様に会いに行くことで、何か心の洗われるものがあり、仏女もそうでしょうが、現代人の求める癒しや瞑想のために、この上なくありがたい場所柄であったということなのでした。


おまけ:
静岡県立中央図書館のHPでも紹介されています
 「伊豆 歴史散歩 ~南伊豆・西伊豆編



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2017年2月9日木曜日

韓国人に乗っ取られた村って言うのは、ちょっと大げさでないかい - 国設最 上川スキー場(山形県)

平成4年12月30日滑走

このスキー場は、JR陸羽西線高屋駅に直結したゲレンデになっていました。
なぜ過去形で話さざるを得ないのも、既に閉鎖されてしまっているからです。

それは平成12年のことで、滑った頃は平成四年ですから、まだ営業中です。
それで、午前中にAsahi自然観スキー場を滑ってから、急ぎ移動しました。

距離で百キロ、一般道をひたすら走りましたが、正月休暇で空いていました。
駅前の駐車場に止めたのですが、山側へ長い跨線橋が掛かっております。

最上川にそって国道と線路が併走していますので、ゲレンデが山の方でしょう。
そう思って橋を渡り端を、深い林の間を縫って、雪道を登りつめて歩きました。

すると、視界が広がり、食堂兼管理センターの建屋も見えてきます。
既にゲレンデに入ってしまったのか、右側にはシングルリフトも動いていました。

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リフトは縦に二本を連なり、ゲレンデは小規模ながら駅そばのメリットは大きい。
ただ、誰しもが車を所有できる時代になってしまうと、アクセスは車でしょうね。

だから、自分もそこに駐車したのですが、暖かくボタン雪が降り注いでいます。
ゲレンデを眺めますと、バーンも溶け出して条件があまり思わしくありません。

積雪も少ないし、地肌の出た箇所もあって、注意深く滑ったのを覚えています。
それで、昼飯もろくに食べていなかったので、食堂に入ってうどんを頼みました。

三十代の女性がレジにいたのですが、頼んでも愛想のいい返事もありません。
ただお代金を支払っておつりをもらい、しばしの間、給仕されるまで待ちました。

客は自分一人で、どんぶりがお盆に置かれて出されると自分だと分かります。
そのときも、お待ちどうさまとか、世辞のひとつもなく、異様な雰囲気でしかない。

食堂のおばちゃんだったら、よく来たねー、はいよーとか、愛想はいいものです。
仮に、まだ若いから恥ずかしがったとしても、何かの受け答えがあるはずです。

ところが、全く会話が成立せず、無言のままに終始する給仕が忘れられません。
この異常さが忘れられず、あの女性は異邦人だったのかと思ってしまいました。


それで、後年、スキー場のあった戸沢村について、一つ分かったことがあります。
それは、農家の嫁不足問題解消のため、韓国から花嫁を迎えているのでした。

来村を募って成功した自治体の事例として、この村は全国で有名になりました。
五千人ちょっとの人口の中で、韓国人の奥さんが二百人ですから目立ちます。

道の駅、戸沢の写真


しかも、村に設立された「道の駅とざわ」は、 モモカミの里 高麗館と命名です。
花嫁さん達も、ここの韓国のみやげ物店、韓国レストランでを働いております。

さすがに、この韓国びいきが過ぎれば、韓国人に乗っ取られたと思えなくもない。
ネットでは、話半分、冷やかし気味にブログで書く人も出る始末なのでした。

というわけで、自分が異邦人と感じた人は、韓国人妻だったのかもしれません。
日本での暮らしになれず、日本語もうまく話せない背景が、原因だったのか。

実際、そう思わざるを得ない食堂の記憶が、鮮やかに残っていたからでもあるのですが、対照的に小規模で変化に乏しいスロープは、あまり思い出にもならず、そんな最上川スキー場の一風変わった情景なのでした。


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