2019年4月29日月曜日

台湾人と日本人とがともに過ごした日々を大切にしてくれて、ありがたく思います - 花蓮觀光糖廠(花蓮県・台湾)

新渡戸稲造は、台湾製糖業の父

台湾の東部を旅行しますと、日本統治時代に残された多くの施設を見かけます。
その施設自体も、日本人が引き揚げた後、中華民国になって使われ続けました。

それは民間あるいは総督府の施設であろうと、多くは接収されたものでしょう。
歴史遺産と言うことになりますが、時を経てば施設もかなり老朽化して来ます。

しまいには、使われなくなってしまって、廃止されたり放置されるのは必然か。
それでも、そのまま残されていた廃墟は、台湾人でも懐かしいのかもしれない。

それに、そんな思い出の場所を復活させれば、観光の目玉になるかもしれない。
現地の人もそうですが、日本人が観光で台湾を旅行すれば、史跡になるだろう。

そんなことで、台湾東部では、日本人が残した旧施設が観光地に変貌しました。
特に花蓮県にある製糖工場跡地は、現在、花蓮觀光糖廠として再生しています。

  
レストランや宿泊施設も完備されていますが、戦前、塩水港精糖の工場でした。
この会社は、日本で既に百年企業になりましたが、パール印のブランドは有名。

実際に訪ねてみましたが、戦後、引き継いだ台糖が、そのまま使っていた感じ。
中の資料館では、台湾製糖の父として日本人の新渡戸稲造も紹介されています。

五千円札の肖像になりましたが、この偉人を紹介してくれるのが有り難いです。
これが韓国なら、日帝が朝鮮人民を搾取した植民地の証拠で、騒ぎ出しそうだ。

いや、韓国がもっと愚かなのは、地図の測量で設置した三角点を抜いたことね。
全国の名山に打ち込まれた鉄杭が、日帝の風水侵略を立証する資料なんだとか。

こんな迷信に惑わされて、三角点を引き抜く所業が堂々と実施されていました。
つまり、自分達の手で実地測量を経験していなかったから、できたお粗末さだ。

最近では航空写真から起こした地図を使用していたとか、お寒い話ばかりです。
しかも、時の政権は戦後五十年の節目で、力点推進事業として推し進めました。

マンセー(万歳)と叫ぶ、無知さ加減

民族精気回復事業と馬鹿馬鹿しいほどで、非科学的な迷信を妄信する幼稚さか。
最近、ようやっと三角点の意義に気が付き出したんだけど、もう遅いんだよな。

ちょっと話が脱線してしまったけれど、話を台湾東部に戻すとしましょうかね。
当時、現地で開発が始められた頃、住んでいる人々は主に少数民族だけでした。

対岸の中国大陸から移り住んできた人は、西部に集中していたと言うことです。
台湾海峡をはさんで交易もできるし、平野部も多いから農作物も収穫できます。

だから、現地の人は、少数民族との摩擦を考えて東部に進出する気も無かった。
そんな風に思いますが、台湾総督府を置いた日本政府はそう考えませんでした。

まあ、西側にはすでに大陸の人たちが移り住んで、おいそれと入り込めません。
後釜で入って来た新参者だし、既存の経済権益と対立する分けにいかないしな。

一方、明治時代は、政府主導の殖産興業や北海道開拓の経験が活用できます。
だから、台湾でも、東部の経済的に後進地域を選んで、経済開発を考えました。

しかも、新渡戸稲造氏を初めに、札幌農学校の卒業者たちが送り込まれました。
こう言った背景を見ると、開拓精神を育んだ若者たちが、敢えて選ばれたはず。

こういった人的資源ですから、手垢の付かない東部に投入されたのでしょう。
というわけで、台湾の若い世代にも自らのアイデンティティー探しは大事です。

それが、台湾での郷土史ブームにつながり、観光地として史跡が再生されているのですが、自分たちの祖父母の生きた姿を思い出すためには、この時代の遺産を辿ることできっかけになるのかも知れず、他方で我々日本人の祖父母の足跡も残っている分けですから、台湾人と日本人とが、この地でともに力を合わせて過ごした日々があったという歴史が残されて、それを共有しあえることに感謝の念を覚えずにはいられないのでした。



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