平成6年1月4日滑走 |
このゲレンデは、県庁所在地の福島市にあったので廃止が惜しまれていました。
ここが無くなれば、近在では国道13号線で山形県側の栗子国際になります。
距離で見るとどっちもどっちですが、廃止のゲレンデには高湯温泉があります。
温泉地行楽にスキーと言うのは、季節的に観光名所の減る冬季ならではもの。
なので、温泉旅館街の人も、営業運転を続けてもらいたかったと思いますよ。
でも、ゲレンデ規模が大型化して来た趨勢に比べると、小粒なのは否めません。
しかも、標高差が自慢の割りには、リフト運営が会社別に分かれたりしました。
このため、リフトを乗り継ぐのに、別々の券を購入したのは不便極まりません。
滑った頃、珍しくなったシングルリフトに乗ってゲレンデトップを目指します。
ゴンドラのあるスキー場に人気が集まっていた時代なのに、少しばかり淋しい。
トップから降りて来ましたが、途中が緩斜面になって滑るのがかったるいです。
なので、滑走記念として行って見ただけの感じのゲレンデになってしまったな。
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ところで、この吾妻山山麓にあるゲレンデは、冬山登山の起点になっています。
つまり、連峰を山スキーで目指す人も多く、時間の節約でリフトを使いました。
そして標高を稼ぐと、管理人が通年で常駐する慶応吾妻山荘に到着します。
開湯四百年の温泉旅館「足立屋」の社長さんが、山好きで開いたのだとか。
元々、小屋は戦前に開かれたのに、後年、慶応を加えたのはどうしてでしょう。
きっと社長が卒業生だと思うけど、ネットで調べてもよく分かりませんでした。
さて、この登山コースは、五名が遭難死亡する山岳事故を引き起こしています。
平成六年、本連峰の最悪な事故となりましたが、無事に二人が下山しました。
パーティーの面子は勤労登山家だったので、休暇明けに仕事が待っています。
このため、強行日程が遭難の原因になったようですが、一番はラジオなのです。
冬山の天候は急変しやすくて、気象予報を聞くためのラジオは欠かせないはず。
なのに、山岳ガイド有資格者のたリーダーは、携行しなかった杜撰さでした。
しかも、管理人のいる吾妻山荘に立ち寄らず、先の避難小屋を目指しました。
一方で、管理人は、気象予報から、宿泊客に翌朝の下山を勧めていました。
つまり、ここが正に運命の分かれ道とは、一行は露知らずに遭難してしまった。
当時、日本海側から東方に進んだ低気圧が、太平洋で一気に発達します。
西方では、シベリア寒気団を運ぶ高気圧が張り出し、気圧の配置が険しい。
こうして、まれに見る強い冬型の気圧配置に急変したのに、一行は知らない。
ブリザードに阻まれてホワイトアウトで距離感も失い、同じコースを巡り回る。
雪洞を作りビバークしても、体力は消耗していて疲労と寒さが命を奪うのです。
まあ、山ガールがメンバーに含まれており、ニュースは全国を駆け巡りました。
というわけで、冬山は馬鹿にできず、自分はそこまで厳しい登山は致しません。
この吾妻スキー場といえば、この遭難事故ばかりが先に思い出してしまって、ゲレンデがどうだったのかは印象が薄いのですが、それも個性に乏しいスロープだったのかも知れず、リフトがなくなった今、冬山登山もずいぶんと難儀な登りになったのだなと思うのでした。
おまけ:
この遭難事故は、正式には”吾妻連峰雪山遭難事故”と呼ばれております。
また、東山荘の歴史について年表もネットから見つけることが出来ました。
Youtubeより(クリックで移動します)
【山岳遭難】そして5人は帰らなかった ~吾妻連峰・雪山遭難を辿る~
その①
その②
その③
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