昭和63年1月30日滑走 |
ここは、宮城県スキー発祥の地だそうです。
鳴子温泉街の裏山に位置しています。
ところが、簡単そうに思えてたどり着けられない。
分かりやすい道しるべもないし、無論カーナビは後世の話。
とにかく、駅前から鳴子小学校をぐるっと回り込んでみました。
すると、程なくしてなだらかなスロープが見えてまります。
ここが、齢90歳を超えようとする歴史の長いスキー場なのです。
開かれたのは大正12年、昭和以前の話ですからかなり古い。
最初はリフトも無く、スキーを担いで上ったのでしょう。
当然、体力的にも負担にならないようスロープもなだらかです。
距離もさほど無いし、 ここにリフトを掛けても気持ち程度でしょう。
滑った当時、三本のリフトの内、二本が稼動していました。
どちらも、二百数十メーターの長さで、三分かからない距離です。
この三分と言えば、、インスタント食品の定番時間ですね。
この間、我慢すればおいしく出来上がって食べられるわけです。
放映中の時代劇”子連れ狼”を見事にパロディーしています。
時は昭和47年、台詞回しも面白いものでした。
岩波新書:キャッチフレーズの戦後史より |
”大五郎。 母が恋しいか。”
”おおそうであった。 三分間待つんだぞ。”
”おおそうであった。 三分間待つんだぞ。”
この後、”腹がへってもじっとガマンの子であった”で閉めます。
当時、第四次中東戦争で石油価格がかなり高騰していました。
物不足も広範囲に発生して、買いだめも横行したりしています。
つまり、一般庶民は耐乏生活を強いられていたのです。
だから、我慢という言葉が世相にドンピシャはまったのでしょう。
まあ、高度経済成長の日本に陰りの差した時期なのでした。
クリックで拡大します |
そんな昔を、 このスキー場のリフトからつい思い出してしまいました。
なんたって、三分で乗り終えてしまう短さが可愛くもあります。
しかも、最大斜度20度、
ファミリーをはじめ初級・中級者でも安心して楽しめる。
はっきりいえば、温泉客や地元の子ども向けスキー場。
しかも、 温泉街からすぐとゲレンデアクセスは意外に魅力的でした。
と言うわけで、
ただ、ガラガラで経営自体どうなっているのか心配も残ります。
それでも、フリーゾーンが確保されてソリ遊びには穴場でしょう。
子どもにはその方がいいと、 変に納得してしまう鳴子上野々スキー場なのでした。
おまけ:
(出典:岩波新書:キャッチフレーズの戦後史)
注:コースマップ出典元→オールスキー場完全ガイド’95( 立風書房)
いいねと思ったら、二つポチっとね!
0 件のコメント:
コメントを投稿