2017年1月7日土曜日

夭折した人々の中には、現在の医療水準で救い出したかったと夢想するほど、俊英がいたのであろうな - 神田日勝記念美術館(北海道・鹿追町)

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主要作品が紹介されています

農民画家、神田日勝は、帯広の鹿追町で暮らしながら農業を営んでいました。
将来を嘱望されていましたが、急逝したのは、これからという年齢の三十二歳です。

死因は、腎盂炎から来る敗血症だったそうですが、無理を重ねたのかもしれない。
日中は農作業に明け暮れて、帰宅してから夜遅くまで描き続ける毎日だったとか。

体をこじらせ、はっきりとした病名が分からないまま、入院した矢先に旅立ちました。
もし、長生きできたならば、どんな作品を残していたのだろうと、つい夢想してみます。

それで、自分が彼の存在を知ったのは、北海道新聞が作品を紹介したからです。
昭和45年のことで、オフセットカラー印刷が導入されて間もない頃だと思います。

日曜付録版から全面ぶち抜きで、「室内風景」と言う作品が印刷されていました。
当時、カラー版は特別なページでしか目にすることが無かったので実に新鮮でした。

画題自体も、新聞が壁と床一面に張られた部屋で、男が一人うずくまっています。
印象的な絵で、子供心にしては上手いのか、下手なのか、よく分かりませんでした。

それと、うずくまる男の顔が日に焼けているのか、浅黒く類人猿風に見えてしまう。
まるで、学校の教科書に登場するネアンデルタール人なので、記憶に残りました。

室内風景(北海道立美術館収蔵作品)

まあ、小学校高学年の子供が抱いた感想だとしても、致し方ありませんでしょう。
後年、大人になって、それ以外の作品も併せて鑑賞して、初めて理解できました。

ところで、この頃、自分の叔父も肝臓を患っていて、病名が分からないでいました。
母親も兄を案じたのでしょう、自分を連れて病院まで見舞ったのを覚えています。

札幌からは気動車の急行で、病院は芽室町にありますが、鹿追町は目と鼻の先。
やけに肌も目も黄色くて黄疸の症状がでたのだと思いますが、回復しませんでした。

葬儀にも出かけましたが、この神田日勝も、当初、死因ははっきりしませんのです。
まあ、当時、北海道の田舎の医療水準では、病状を探りかねたのかもしれません。

病名がはっきりせずに容態が悪くなってしまい、この世を去ると言うのははかない。
現在では医学も格段に進歩しましたが、それでも誤診があれば手遅れになります。

なぜ、そんなことを思い出しのか、それはタイの駐在生活の経験からなのでした。
ある時、知り合いでラオスに駐在していた張本さんに、偶然、病院で出会いました。

バンコク病院
日本人専用受付もあります

それも日本人の通院するバンコク病院で、ひょっとして病が重いのかと勘ぐりもします。
こちらから話を聞くのは敢えて避けましたが、本人は、快方に向かっているとのこと。

ラオスの一番大きな病院でも、一週間、続いた微熱の症状を診断できないでいた。
これは、一大事になれば適わないと決断して、バンコクへ飛んだと話してくれました。

その結果、分かったのは風邪でもなくて、肝膿瘍(かんのうよう)という肝臓の病気。
病原は赤痢アメーバという細菌で、不衛生な屋台で飲食したことから起きるらしい。

発病の前、屋台で火が通った焼鳥を確かめてから食べたといいますが、それなのか。
東南アジアの旅行者にも多いそうで、発熱、倦怠感の程度では、疲れに見えます。

だから、手遅れになると死に至る場合もあるとかで、判断は正しかったと思いました。
そして、肝臓が化膿してうみが溜まるため、肝臓に針を刺して取り除く治療もします。

実際に、寝巻き姿の張本さんは、腹部からチューブを出していたので驚きました。
そのうみを吸い出す治療が痛いらしく、我慢がつらいのだと嘆くのがおいたわしい。

なので、長話では疲れも溜まりましょうから、そこそこに切上げて病院を後にしました。
というわけで、病名も分からずに治療も出来ないでいるのは、実に悔しいものです。

もう十年も前になりますが、自分もC型肝炎に罹っているのが分かって、副作用の強かった当時の薬の投与で、回復率五十パーセントから、無事に治療を終えて生還できた者としては、病名がはっきりしなかったら、自分が納得の行くまで、病院を変えて診察を受けるのもありなのかなと、思ったりもしてみたのでした。



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2 件のコメント:

  1. イトーマン2017年1月7日 20:52

    病気は怖いですね。おじさんのお見舞いは北見から池北線で行かれたのですか?
    私は今、サホロスキー場に来ています。バーンが堅く難渋しました。昨夜は帯広に泊まったので今日は芽室も通過しました。芽室は豊かな町ですが今年は台風被害でたいへんだったようです。

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  2. 父親の転勤で、北見から札幌へ引っ越してから、根室本線で芽室に行きました。
    まだ、石勝線のトンネルを掘っている頃で、狩勝峠を越えたということです。
    あの頃は、急行「狩勝」で四時間半も掛かりました。
    そうそう、南ふらのスキー場のゲレンデもなかなかのものです。

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