ロシアの作曲家、プロコフィエフは、ロシア革命の難を逃れて来日しています。
一世紀以上も前の話ですが、彼はシベリア鉄道経由で南米に行くつもりでした。
このため、終着駅から日本海を渡り、中継地の横浜港に着いたのが七月の初め。
ところが、一日遅れでチリへ向かう客船は出港してしまって、次便は一か月先。
図らずも足止めを食らったプロコフィエフは、することもなくホテル生活です。
この時、音楽好きの帝国劇場支配人が、偶然、宿泊名簿から彼を見つけました.
そして、音楽評論家の大田黒元雄氏に連絡したことから、話は急転直下します。
実は、新進気鋭の作曲家とはいえ、日本ではまだ無名で、誰も気づきませんな。
それでも、同氏は西洋の音楽界に造詣が深かったので、手厚くもてなしました。
ピアノを弾く機会が与えられたり、芸者を呼んで大きな歓迎会を開いたらしい。
日本の滞在はわずか一ヶ月でしたが、それなりに彼は楽しんだのではないかな。
音楽家ですから、興味を持って日本の伝統的な音楽、邦楽も耳にしたはずです。
特に、長唄の”越後獅子”を聞いたと推測されていますが、それには理由がある。
ピアノ協奏曲3番の終楽章に、その旋律が引用されていると言われているんだ。
ポリーニ・N響、名演の試聴はここから |
この話、日本では信じられている話ですが、海外では全く顧みられないのです。
ただ、プロコフィエフは民謡の旋律をよく引用していますので、可能性は高い。
本当にそうなのか、自分も試聴してみましたけど、結局、分かりませんでした。
ただ、あのゴジラで有名な伊福部昭の作品も、演奏者で雰囲気が変わるのです。
それは、”ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ”なる作品。
日本の交響楽団が演奏すると、日本人の感性にある邦楽の雰囲気が色濃いです。
ところが、ロシアのオーケストラが演奏すると、西洋音楽にしか聞こえません。
つまり、日本人が体験している土着的な音感、リズム感が抜けてしまっていた。
粘りっこい民族的なリズムも消え、さらっとした演奏だったのは逆に印象的ね。
そうならば、彼の聞いた越後獅子も、単に面白いフレーズに過ぎなかったのか。
というわけで、結局、彼は南米渡航を切り替えて、自由の国、アメリカに向う。
今となっては、”越後獅子”のモチーフが引用されたのかは迷宮入りしてしまった分けですが、この協奏曲3番自体、日本滞在中で構想が練られたと言われていますので、日本人としてモチーフが使われていて欲しいと思うのは、当たり前なのでした。
< Ritmica Ostinata 聞き比べ >
このコメントはブログの管理者によって削除されました。
返信削除