九月末、父親の二十三回忌法要を決めて、旅行がてら北海道まで旅立ちました。
三十三回忌となると、喜寿に間近くて、できるかどうかも分からない年齢です。
なので、繰り上げ法要をしてからは、年忌法要などは無頓着で不心得者なのだ。
ただ、法要を行ってしまうと、後に残った旅の日程は、後は自由気ままな旅行。
まあ、紅葉が見られるかもしれないと思って、道東まで足を延ばしてみました。
母親の生まれ故郷は十勝なので、ここに二泊で観光地を巡り歩くことに決定だ。
自宅でグーグルマップから車の移動時間を調べつつ、色々と観光地を探します。
その時、然別湖から士幌方面へ抜けるルートを調べながら、この碑を発見した。
この地を踏破した登山家、大島亮吉を顕彰した石碑で、この人なら知っている。
戦前の登山界の黎明期にに活躍した人物で、著作”山: 随想”を読んでいました。
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こんな名言を残している |
ブックオフで買い求めた百円也の文庫本で、主に北海道は開拓期の登山行です。
戦前のアルピニストとして有名で、若くして前穂高で遭難死したのが痛ましい。
北アルプス槍ヶ岳の冬季初登頂も遂げた登山家は、未開の北海道に足が向いた。
その踏破の記録ですが、鹿追町の山、西ヌプカウシヌプリに登頂していました。
東にも同じく東ヌプカウシヌプリがあって、彼は双耳峰として紹介しています。
当時は、鹿追村として音更村から別れたばかりで、人里とは名ばかりの開拓地。
顕彰碑は、著作の一文を紹介していますが、開墾された土地も表現されている。
一方、著作の中では、時の経過で開拓地も、道路が開通されて発展するだろう。
それでも、広大な大自然の十勝を雄大に描き出した文章は、味わい深いのです。
若さの見受けられる描写もあるにせよ、それはそれで自然描写が勝っています。
というわけで、当時の開拓農民達は、蛋白源を求めて然別湖へ釣行したらしい。
著者にとっては、この踏み跡が手助けになって、双耳峰の西側へ登頂を果たしたようですが、湖にはミヤベイワナという貴重な魚種が生息しており、これが農民の日々の糧になっていたのは違いなく、他方ではこの湖が東京へ知られることになって観光地化していったのも、これが地域発展の歩みだったのだろうと思うのでした。
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