戦前の首里城整備工事 |
沖縄の首里城を保存する活動は、内地の”ヤマトンチュ”が始めました。
東京帝大教授の伊東忠太氏なのですが、”ウチナンチュ”は無関心ね。
何しろ、荒廃した正殿が倒壊する恐れ出て、破却を検討したほどです。
首里城内に小学校を建てたのが発端になり、生徒たちには危険なの。
まあ、お城の中に学校を建てるのは、明治期の日本でもままありました。
国宝の彦根城には、県立の彦根東高校という進学校が存在しますよ。
一方、宮崎の飫肥城には、復元された大手門を通り抜ければ小学校。
元々お城は藩の藩庁(政治の場)であり、藩校があったりもしました。
だから、その跡地に学校が建てられ、再利用する場合も多かったのです。
となると、首里城に小学校というのは、ヤマトンチュでも当然になるんだ。
ところが、ウチナンチュはお城を守らずに朽ちるに任せたままと違いがある。
現地は保護しようとせず、ヤマトンチュだけが歴史的価値を認めたのよ。
なんか変だよなー、琉球国の象徴だったお城を大切にしないなんてさ。
まあ、明治維新で、多くの名城が維持できずに壊されたのも事実です。
それでも、ご当地のおらが故郷の自慢で、いくつかの城は残されました。
世界遺産になった姫路城、長野の松本城など、篤志家の寄付もある。
廃城令で素直に従って破却したお城もあったとは思うけど、なぜかなあ。
結局、スクラップの直前で、ようやく、日本政府が保護に乗り出しました。
当時は、文化遺産の社寺を保護する法律だけで、お城は対象外です。
なので、伊東先生らは、苦肉の策で正殿背後に沖縄神社を建てます。
次に正殿を神社の拝殿とみなし、国の予算で修復するようにしました。
しかも、源為朝を祀ったのがミソで、その末裔は中山王朝の始祖だとか。
このことは、江戸時代の”中山世艦”という琉球の正史にも載っています。
だから、理屈として為朝神社というのは正統で、うまいこと考えましたな。
首里城炎上 |
こうして、首里城は先の大戦で焼失するまで、国宝として守られました。
要するに、ヤマトンチュ=国がちゃんと価値を認めて保護に載りだしたの。
なので、戦前の首里城の保護活動は、ウチナンチュは無関係なのです。
次に、先の大戦で焼失したのは国にも責任があり、だからこそ再建した。
だけど、アメリカの占領期、琉球政府統治下でも再建されなかったのさ。
では、どうして沖縄の人々は首里城をこのような扱いにしたのでしょうか。
まあ、廃藩置県で沖縄県になりましたが、旧王家一族は優遇されます。
そういったグループへの「旧慣温存」が、沖縄支配の原則だったのですよ。
一方で、農民層は重税と貧困の中、苦しい生活を強いられて来ました。
実際、八重山諸島で実施された人頭税などは、明治期も続いたほど。
人頭税石_身長で超えたら徴税だ |
歴史的に見ても、八重山諸島の人々は琉球国に服属した経緯があるのです。
だから、沖縄本島にはなかった人頭税を課したというのは、搾取でしょう。
つまり、琉球王国は、名を変え、姿を変えた憎悪の象徴だったのかもね。
結果、庶民が無関心なのも分かるし、保護する気も起きなかったんだ。
というわけで、イベントの引込み電源配線が出火原因らしいのは杜撰。
正殿北側の分電盤床下にある引き込み配線と、焼けて細切れになった延長コードには、三十ケ所以上の「溶融痕」が見つかったと発表された以上、配線同士が接触してスパークした結果で生じるショート痕だった可能性は否定できず、施設管理者たる沖縄県に責任を取ってもらわねばならないから、今度こそ、県の費用負担で自主的に再建して当たり前だと思ったのでした。
注:「ウチナンチュ」は、「沖縄の人」を意味します。
「ヤマトンチュ」は、大和人=沖縄以外の日本人を指します。
道産子が本州方面を内地といいますが、沖縄の人もそうだな。
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