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猪谷六合雄氏なのですが、 ゲレンデのデザイナーとしても高名だった人です。
それは、焼額山麓東方に広がる傾斜地”熟平” をリゾート地にする構想でした。
それは、焼額山麓東方に広がる傾斜地”熟平”
ただ、実際にこれが実現するまでには、 十年以上の長い時間が掛かっています。
なにかの紆余曲折があったのだと思いますが、 詳しいことは分かりません。
なにかの紆余曲折があったのだと思いますが、
こうして、別荘地の分譲を手始めに、順にスキー場、 ゴルフ場がオープンしました。
この経緯が面白くて、 今にいたる奥志賀高原の歴史を年表にまとめてみました。
この経緯が面白くて、
<奥志賀高原の開発年表>
昭和43年(1968年)
3月31日 熟平(奥志賀)開発のため山ノ内町と賃貸借契約調印
9月16日 不動産業営業開始
昭和43年(1968年)
3月31日 熟平(奥志賀)開発のため山ノ内町と賃貸借契約調印
9月16日 不動産業営業開始
昭和44年(1969年)
12月21日 奥志賀高原ホテル、スキー場開業
12月17日 奥志賀高原山頂レストハウス営業開始
12月21日 奥志賀高原ホテル、スキー場開業
12月17日 奥志賀高原山頂レストハウス営業開始
昭和51年(1976年)
6月1日 奥志賀高原ゴルフ場開業
6月1日 奥志賀高原ゴルフ場開業
昭和61年(1986年)
12月13日 奥志賀高原ゴンドラ開業(12月8日竣工式)
12月13日 奥志賀高原ゴンドラ開業(12月8日竣工式)
平成5年
4月26日奥志賀林道A・B線の県道昇格、 奥志賀高原ホテルまで無料開放。
4月26日奥志賀林道A・B線の県道昇格、
平成7年(1995年)
4月1日 奥志賀林道C・D線 県道昇格、箕作まで全線無料開放。
4月1日 奥志賀林道C・D線 県道昇格、箕作まで全線無料開放。
平成19年(2007年)
5月11日 ユニファイド・パートナーズへ奥志賀開発エリアの譲渡を発表。
(奥志賀高原スキー場、奥志賀高原ホテル、奥志賀ゴルフ場)
7月 上記三施設をユニファイド・パートナーズ㈱の子会社へ譲渡
5月11日 ユニファイド・パートナーズへ奥志賀開発エリアの譲渡を発表。
(奥志賀高原スキー場、奥志賀高原ホテル、奥志賀ゴルフ場)
7月 上記三施設をユニファイド・パートナーズ㈱の子会社へ譲渡
出典:
日本観光史(会社編)より
”山ノ内町 今伝えたいこと”より日本観光史(会社編)より
最終的に、 開発者たる長野電鉄はこのエリアの事業から撤退してしまうのです 。
電鉄の創始者が志賀高原の名づけ親なので、 断腸の思いだったかもしれない。
電鉄の創始者が志賀高原の名づけ親なので、
この他、丸池周辺の観光事業も手を引きましたので、 ちょっと残念に思いました。
まあ、スキーブームが去ってしまい、 将来の成長が望めなくなったということです。
まあ、スキーブームが去ってしまい、
そうなれば企業としても、 事業の集中と選択は避けられなくなってしまうでしょう。
こうして、奥志賀高原と長野電鉄の開発の歴史は、 幕を閉じたのでありました。
こうして、奥志賀高原と長野電鉄の開発の歴史は、
ラウンジが広く景観もよく、大きな暖炉はホテルの顔で、 フランス料理も折紙つき。
開発当初から開業され、 歴史の長さがこのホテルの奥ゆかしさを物語ります。
開発当初から開業され、
小澤征爾氏の関わった森の音楽堂と言う小さなコンサートホールま でありました。
どの施設もシックにまとめられていて、 バブルのリゾート開発とは根本が違います。
どの施設もシックにまとめられていて、
というわけで、長野県、 いや東京の財界人までにもこよなく愛された土地です。
ホイチョイプロダクションの”極楽スキー”という本でも、 このスキー場とホテルが特別扱いで紹介されておりましたが、 スキーはリゾートという切り口から徹底的に掘り下げたコンセプト に、正にここが合致していたのであろうと思うのでした。
ホイチョイプロダクションの”極楽スキー”という本でも、
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2003奥志賀高原パンフ |
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